第8話 雷の座標へ
艦〈アカツキ〉が新たな目標宙域へと軌道を修正した瞬間、ブリッジの空気がわずかに変わった。深宇宙へ向かうための重力補正航路を通過するのは、初期航行訓練以来のことだった。
静まり返った艦内。スラスターの噴射音が遠く、緩やかに響いていた。照明は低照度モードに切り替わり、コンソールの発光が彼らの顔を淡く照らしていた。
「座標までおよそ六時間。途中、微細な重力変動が数回ある。アカツキ、航行制御は任せる」
『了解。補正スラスター起動。安定制御モードで維持します。……ユウト、体調は?』
「平気さ。そっちこそ、大丈夫か?」
『稼働制限まであと二時間三十二分。問題ありません。ただし、座標到達までの時間を考慮すると、途中で一時的に仮設義体をスリープモードに切り替える必要があります』
「スリープって……大丈夫か? 途中で呼び戻すとか」
『はい。艦内ネットワークを通じて意識の一部は維持されます。必要があれば、即時復帰可能です。……ご心配なく』
そう言って、アカツキは自身の義体を操作し、タイマーと復帰条件を設定した。まるで眠る前に毛布を整えるような仕草に、ユウトはふと微笑を漏らす。
「じゃあ、ゆっくり休んでてくれ。雷のところまで、俺が案内する」
『……ありがとうございます。ユウト。少しだけ、おやすみなさい』
義体の発光が徐々に収束し、仮設ボディは静かに沈黙した。その間にも艦内の制御は自動モードへと引き継がれ、アカツキの“気配”は確かにそこに残っていた。
仮設義体での活動には制限がある。とはいえ、彼女は今や艦の中枢機能の一部となりつつあった。ユウトの指示を待たずとも、既に数十の制御系が自動的に連携して動いている。アカツキの処理速度は日増しに上がっており、音声による反応にかすかな抑揚が宿るようになってきた。
航行中、アカツキの目が淡く輝く。
『ユウト、少し昔の記録を思い出しました。雷と最後に別れた宙域の記録です。あのとき、わたし……手を振っていた気がする』
「手を……? それって、記録に残ってたのか?」
『いいえ。記録ログにはありません。けれど、今こうしていると、断片的に思い出すことがあるんです。まるで夢のように』
ユウトは言葉を探しながら、微笑んだ。
「それでいいんだ。夢でも、記憶でも、お前が感じたなら、それは確かな“何か”だよ」
アカツキは小さくうなずいた。
『……ありがとう。わたし、少し安心しました』
そのやりとりの最中、航行ルートは徐々に目的地へと近づいていた。人工衛星群の影が遠くからでも視認できるようになり、機器類が微細な警告音を断続的に鳴らし始める。
『ユウト。……あの星域、近づいています。周囲に電子干渉があります』
「シールド展開。通信ログ、全記録モードへ」
『了解。同期開始──……ノイズ強め。おそらく、旧式の陽電子干渉です』
重力航路を抜けた先には、荒廃した人工衛星が何百機も軌道上を漂っていた。その中に、ただ一機──艦と形容できるにはあまりに沈黙した影があった。
「……いた」
ユウトは思わず声を漏らした。
レーダーにはかすかに反応があった。艦籍コード《IKZ-07》。雷——彼女の所在が確認された。
『通信試行。……反応なし。コアユニットの機能停止、または遮断状態の可能性』
「構わない。接近する。……アカツキ、護衛航行頼む」
『はい。……絶対に、失わせません』
冷たい宇宙の闇を裂いて、艦〈アカツキ〉は静かに雷のもとへと進路を取った。
接近の最中、ユウトは艦体の破損箇所を映像として確認した。表面は放射線焼けで黒く変色し、複数の砲撃痕があった。外部アンテナはすでに失われており、緊急灯だけが時折、微かに点滅していた。
「……ここで、ずっと待ってたのか」
声に出すことしかできなかった。返事のない空間に、それでも何かがいる気がした。
ブリッジの照明がさらに落とされ、救助モードの赤色ランプが艦内に点在するように灯った。アカツキが操る艦の動きは限りなく静かで、触れるように、包み込むように、雷へと寄り添っていく。
『接触座標を固定。マグネティックドッキングモード、移行します』
「了解。救助用スーツ、起動確認。突入準備を開始する」
仮設の艦外用ユニットに身を包みながら、ユウトは深く息を吸い込んだ。視線を端末に移すと、そこにはアカツキの仮設ボディが佇んでいた。
『ユウト。わたしも、行きたい』
「……分かってる。お前の姉妹なんだからな」
アカツキは静かにうなずいた。
ユウトは彼女の義体を見つめながら、小さなバックパックを手渡す。その中には非常用の信号増幅器と、予備の電源セル、そして彼女が選んだ小さな“花飾り”が入っていた。
「雷に、これを渡したいんだろ?」
『……はい。わたし、約束してたんです。いつか、また会えたらって』
接触の瞬間まで、あとわずか。彼らの救助活動が、新たな運命の扉を開こうとしていた。
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