第4話 西暦1545年。竹千代、三歳。
春が来た。
岡崎の土はまだ冷たいが、屋敷の梅は咲いた。小さな花の香が風に混ざる中、竹千代様は庭に立ち、乳母の手を振り払って一歩、また一歩と歩いた。
「ほう……また歩かれましたぞ!」
「まあまあ、昨日よりも足取りがしっかりしておられる!」
と、侍女たちが騒いでいたが、わしはそれを遠巻きに見ていた。
竹千代様は、歩いた。
わしがこの世で初めて守ると命じられた命は、ようやく自らの足で立ち、進み始めた。
だが、それを狙う者もまた、歩いて近づいていた。
この年、最も早く届いた報せは、尾張の織田信秀が、伊勢長島へ兵を動かしたというものだった。
「長島、か。あれは一色の残党が集まる地じゃったな」
と、影の集会で誰かが言った。
「それを平定するつもりか」
「いや、あれは海路を押さえるためじゃ。尾張から伊勢湾へ出る道を抑えれば、京からの物資が尾張に流れる」
「今川も黙ってはおるまい」
「だからこそ、動かねばなるまい」
わしは、そのやり取りを聞きながら、手元の小刀を拭っていた。
岡崎の松平家が、その動きにどう関わるか――
竹千代様が直接巻き込まれるわけではないが、その命は、すでに織田と今川の天秤に掛けられている。
この年、岡崎にひとつの文が届いた。
「尾張、近く兵を三河に送るやもしれぬ。用心されよ」
今川義元からのものだった。
表には書かれていないが、その裏には明確な警告がある。
「三河を、尾張に渡すな」
広忠様は、その文を枕元に置いたまま動かぬ。
病が深い。もはや声もほとんど出ない。
「殿、お食を……」
と、侍女が声をかけても、まぶたを開けるだけ。
竹千代様が見舞いに来られても、手を上げることもできぬ。
「父、さま……?」
と、幼き声が問うたとき、わしは障子の影で刀を握った。
このまま広忠様が倒れれば、岡崎は無主となる。
尾張が来る。
その手が、竹千代様に向けられれば――
「影之丞、近く動きがあるぞ」
と、次席の影が言った。
「尾張からの密使が、知立に現れた。今川に背く気かもしれぬ」
「尾張が来るとなれば、まずは碧海郡じゃ」
「岡崎へ入るには、それしか道がないからの」
わしは即座に支度を整えた。
夜、松平の隠れ道を抜け、三つの村を越え、知立の寺に忍び込んだ。
その寺に泊まっていたのは、京言葉を話す商人と、もう一人の旅僧だった。
「商いのためと申すが、兵の数を数えておる」
と、村の百姓が言っていた。
裏道から入ったわしは、商人の寝所へ近づいた。
足音を消し、声を漏らさず、襖の陰に潜む。
男は、絹の帳を広げ、そこに兵の配置を記していた。
「岡崎には、兵二百。矢作川の上流に番所が三つ……」
その声を背に、わしは糸を伸ばし、男の手に絡ませた。
「痛っ……!?」
次の瞬間、口に木片を噛ませ、声を封じた。
「尾張の間者か?」
「……ち、違う。わしは、ただの……商いを……」
「ならば、岡崎の兵を記す必要はない」
男の目が泳いだ。
「数えられた兵の数は、命の数だ」
「……頼まれたのだ。尾張の、織田様の下の者に……わしは……」
言い訳は聞かぬ。影は問わぬ。影は斬る。
その夜、寺の裏に火が上がった。
商人と僧の名は、誰にも知られぬまま消えた。
翌朝、岡崎に異変があった。
「今川からの使者が到着したぞ!」
「竹千代様を、駿府へお預け申し上げよとのこと……!」
その報せに、屋敷中がざわついた。
「なに? 竹千代様を駿府へ?」
「どういうことじゃ? なぜ今川殿が?」
「尾張の動きに備えるためとのこと。松平家は、今川の傘下にあるゆえ……」
その説明を聞いても、家中の者たちは動揺を隠せぬ。
「それでは、まるで人質ではないか……!」
「しっ、声が大きいぞ!」
わしはそれを、天井裏からすべて聞いていた。
人質――それは違う。だが、表向きはそう見える。
実際、これは今川義元の手による策であり、松平家の継嗣を確保することで、三河を握るための布石。
「竹千代様は、出されるか」
「広忠様がご決断を……」
だが、広忠様は動けぬ。
この時、屋敷の中で最も重い決断を迫られていたのは、誰よりも幼い竹千代様だった。
「母上、どこへいくの?」
「竹千代様……ご安心くださいませ。駿府は、よき所にございます」
母の於大様の声が震えていた。
その晩、わしは屋根の上にいた。
駿府行きが決まれば、それを狙う者も必ず出る。
尾張が、動く。
それを察したか、伊賀の影も動いたと文が届いた。
「信秀公、三河を奪うつもりなし。ただ、今川に屈する松平を許さずとのこと」
その言葉の裏に、殺意がある。
竹千代様を、駿府に送る。
その旅の道中が、今年最大の山場となる。
それまでに、わしはすべての刺客を始末せねばならぬ。
屋根から見下ろした庭には、小さな影が見えた。
竹千代様が、ひとりで座っていた。
手に、小石を持っておられた。
「これ、たけちよの……」
誰に言うでもなく、そうつぶやく声が、わしの耳に届いた。
わしは、刀を抜いた。
命を守るために。
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