第3話 西暦1544年。竹千代、二歳。
春、岡崎は強い風が吹いた。
土塀に掛けられた菰が剝がれ、庭の竹がしなるたび、女たちが乳飲み子を抱えて部屋へ駆け込む。
わしはその様子を、屋根の上から見ていた。
「この風が運ぶのは、ただの黄砂だけではないな」
そうつぶやいたのは、わしの背後にいた影の同輩だった。
「尾張の織田信秀が、また軍を動かす気配がある。加納口、犬山、さらに熱田……あの男、矢作川を越える気かもしれんぞ」
「三河へか?」
「さにあらず。今川義元の領へ向けてだ。岡崎は……その通り道じゃ」
わしは軽く頷いた。
尾張の動きは早い。信秀は、今川と直接に刃を交える覚悟でおる。三河はその狭間で、板のように割れかけている。
松平家――その当主、広忠様は依然、病床にある。
「そなた、まだ起きておられぬのか」
と、奥から声がするたびに、侍女たちは顔を伏せた。
竹千代様は、ようやく二足歩行の兆しを見せ始めた。尻餅をついては笑い、泣き、乳母の袖をつかんで離さぬ。
だが、その幼き主の周囲に、再び毒の気配が滲んでいた。
わしはこの年、手を汚すこと九度。
そのうちの三度は、侍に化けた賊。四度は、薬師の使い。残る二度は、なんと坊主だった。
「坊主が刺客か。世も末よ」
と、わしが言うと、頭領はこう答えた。
「仏にすがる心が弱れば、仏を売る者が現れる。それだけのことだ」
影は信じぬ。主君のみを見つめる。それが理。
ある晩、屋敷の外に馬の音が響いた。
「織田信秀の使いが、城下に入ったぞ!」
という声が、門前を騒がせた。
屋敷内に、ぴりついた空気が流れる。
「殿はお会いにはなれませぬ! 病が重く……!」
「ならば、嫡男に会わせよと仰せだ。竹千代殿を――」
「そ、それは……!」
この言葉を聞いた瞬間、わしは動いた。
使いの男は、名を三左衛門と言った。尾張の織田家に仕える者で、過去にも使者として京へ赴いたことがあると聞く。
だが、この男、ただの使者ではなかった。
その足の構え、腰の落とし方――武の者。しかも、鍛え方が尋常ではない。
「これは……刺客か」
わしは夜半、屋敷の外手前、古い門の影で待った。
三左衛門は、家中を通されたあと、何やら紙を渡されて帰ってきた。
「広忠様は、竹千代殿の拝謁は適わぬとのこと。しかと伝えたぞ」
そう言い、手綱を引いた。
だが、門を出た瞬間、男は馬を降りた。
「……くるか」
小さくそう呟いたその声を、わしは聞いた。
そして、男は懐から何かを取り出し、それを背中にしまった。
「やはり刺客よの」
わしは門の梁から飛び降りた。
「待て。三左衛門」
「ほう。名を呼ばれたか。ならば、隠れる必要もないな」
男はすっと背を伸ばした。
腰の刀を外さず、ただ手を伸ばす。
「おぬし、松平家の犬か?」
「影だ」
「犬にも名乗りがあるとはな。ならば、斬っても文句はあるまい」
言うが早いか、男の刀が火を噴いたように抜かれた。
わしは袖口から、短い鎖を飛ばした。
打ち合うこと数合。
月が雲間から顔を出した時、男の腕が砕けていた。
「ほう……やるな」
「次は、喉だ」
「ならば、拙者の負けだ」
男は、自ら喉に刃を当てた。
だが、それをわしは止めた。
「死ぬな。おぬしには、生きて語らせる役がある」
「なんの……?」
「おぬしが尾張に戻れば、広忠様の病状も、竹千代様の姿も、何一つ拝めなかったと語れ」
「それが、おぬしらの策か」
「策など要らぬ。真実があればよい」
男は数刻、沈黙したのち、頷いた。
「ならば……負けも悔いはない」
わしは男の腕に、薬を塗ってから解き放った。
「信秀がこれ以上動けば、三河に火がつくぞ」
「そのつもりだろうて」
男は、肩を引きずって馬に乗った。
「名も告げずに現れ、名も告げぬまま消える。まこと、影よの」
「それが、我らの生き様だ」
男は去った。
その翌朝、屋敷では竹千代様が初めて「まんま」と言葉を発したと、侍女たちがはしゃいだ。
「竹千代様が、お言葉を! お言葉を!」
「まあまあ、よう育たれたなあ!」
笑い声が絶えぬ中で、わしは屋根の上から、それを見下ろしていた。
赤子が言葉を得る。それが、いかに重い意味を持つか――
この国では、言葉は剣よりも鋭い。
命を奪うのも、守るのも、言葉ひとつ。
竹千代様が、はじめて発した「まんま」という言葉が、いつか「政を執れ」という言葉に変わる日も来よう。
それまでに、わしは何度、この手を血で染めるのか。
それでも、影は止まらぬ。
命を守るために、命を斬る。それが、わしの生。
この年の終わり、京ではまた公家の座が動いたと、伊勢から文が届いた。
「公方様、また寵を変えられたとか」
と、文の主は書いていた。
京の動きなど、岡崎の竹千代様には関係ない。
だが、風は確かに、都からも吹いてくる。
わしはまた、刀を研ぎ直した。
影の一年は、常に血で始まり、血で終わる。
竹千代様、今年もまた、生きておられた。
それだけで、よい。
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