4.目覚め
何か夢のようなものを見ていた。
内容は思い出せない。
琴野辺硯の意識は、トラックに轢かれたのちふわふわとした揺れを感じたところで途絶えていた。
(さて、ここはどこだろう?)
しかし、彼女は死の直前に転生を確信していたのでそんなことを真っ先に考え始めた。
最有力候補としては自身の創り上げた世界の【灰の荊と魔眼の闇姫-dark blood-】であるが、それ以外だとしても準備および想像およびシュミレーションは完璧である。
【剣と魔杖のサトゥルヌス】
【聖女降臨-あなたに翼か炭酸を授けよう-】
【即時性アルマ-異界の審判者-】
【抜羽~乙女よ銀色の弓を打て~】
【怪物衛兵と囁く妖精】
どんな世界であろうとRPは完璧に熟せる。かかってこい!
そんな決意をしながら、琴野辺硯は目を覚ました。
前髪がかかっているのか、右側の視界が暗い。左側の目で、眼球の動く範囲で辺りを見回す。
見たことのない天井に再び目を瞑る。
見当が全部違ったのだった。思い返すも、このような天井に見覚えはない。
(何故だ。異世界転生と言えばお決まりの、自分の妄想の世界ないし、自分が生前プレイしていたゲームや、ハマったアニメの舞台というのが定石だろう?)
まだ意識が混濁しているのかもしれない。考えながら、硯はまた闇の中に落ちていく。
しばらくした頃、朦朧とした意識の中に声が聞こえた。
「まあ、命に別状はないでしょう」
「ハァ。そうですか」
男と女の会話であるようだ。男の方は特徴のない声だが、女の方はつっけんどんな物言いに加えて冷たい印象を受ける声音で、少し嗄れている。
「傷はありますが、出血に比べては浅い方です。元通りとは言いませんが、日が経つに連れて薄くなると思いますよ」
話を聞くと、男の方は医者であるようだ。相対する女の声は、突き放したような言い方から察するに患者では無さそうだ。他に声は聞こえず、人の気配はない。硯は鑑みるに自身が患者なのだろうと推測する。思い出したくも無いが、途切れる前の記憶は大型トラックによって宙を舞うあの凄惨な事故である。首の怪我一つで済む話ではないので、異世界の確度はもうどんな証明すらも必要としない。ここは異世界だ。どこかは知らない。
「ところで、大丈夫なんですか? その、事件性とかは……」
男が尋ねる。
「無いでしょう」
女はきっぱりと言い放つ。
「え? ですが、自室で首を自分で切るなんて……傷は深くはありませんが、余程のことがあったのでは?」
「誤って切ったのでしょう」
「誤って切るような位置とは到底思えませんが?」
「髪でも切ろうとしたのでしょう」
「ナイフで?」
(──ナイフ?)
そこで硯は先ほど見た夢の内容を思い出した。視界の悪い鏡面を見つめ、ナイフを首に刺し倒れた女が頭に浮かぶ。
(なるほど。さっきのが私というわけか)
そう心得たが、転生にありがちな記憶の奔流は起こらなかった。硯に託されたのは彼女の魂が朽ちる前のほんの一瞬だけ。
考えても仕方のないことなので、とりあえずは会話に集中する。
「貴族の令嬢が?」
「ええ、その粗末なナイフで」
「サクッと?」
「ええもう。それは軽快に」
「貴族のご令嬢が?」
「そのようですね。起きてしまったことはそうですから」
男の質問をバタバタと薙ぎ倒す女の返答に息をのむ。あまりにも散々な物言いではないだろうか。話を聞く限り、あろうことか死にかけた人物だぞ。労われとまでは言わないが、多少の配慮くらいはしてほしい。
「令嬢なんですよね?」
「何がです?」
誰でもなく、何ときたものだ。もはや物体の扱い。なんかもう目覚めたくない。
「いえ、ですから。この方はご令嬢なんですよね、ここの子爵家の」
男もあまりの言われっぷりに疑いようのないものまで疑い出している。
「いえ、令嬢と言うよりは恥。いえ、恥そのものです」
え、恥?
令嬢なのかと心躍らせていた硯は打って変わって恥と称され愕然とする。それは人を表す名詞ではない筈だ。
「えっ?」
これには医者の男もびっくりである。
「フィフリーネ・スーズリは、スーズリ家の恥です。二度はありません。こうして医者を呼んだだけ、感謝してほしいものです」
女がぴしゃりと言い放った。空気中に浮いた微細な元素が凍りついたように、寒々しい気配が部屋を覆う。
「く、詳しく!」
男は何故かその氷点下の中食い下がった。心配する様な素振りを見せていたが単にゴシップを求めていただけのようだ。
「詳しくも何も、先ほど述べた通りです。診療が終わったのなら、お帰りいただいて結構です」
女はすげなく返答した。氷柱の先端のような鋭さだ。
「あっ! し、失礼しました! こちら、薬! と包帯! それからガーゼ! ここに置いておきますね! 用法容量等はこちらのメモをどうぞ! 失礼します!」
男がゴシップ好きの下世話な好奇心で聞いていることを咎めたようには硯は思わなかったのだが、声の男は自分を咎めたのだと勘違いをしたようで数回平謝りをしたあと「お大事に!」と言い残して部屋から去った。硯の耳にはドアの開閉音が届いた。
男の居なくなった部屋は、しわがれ声の女と硯の2人きりとなった。他に誰かが居る気配はしない。やがて、淀みのない足音が聞こえた。女のものだろう。人より多く歩いてきたような、歩くことに慣れた人間の足音に聞こえた。寝ている硯の隣に立ったのだと気配でわかる。瞑っている目が不自然に痙攣しないだろうかと心配しているうちに女が呟いた。
「……この穀潰し。さっさと死ねばよかったものを」
……死ねって言った?
(ねぇ、待って今。死ねって言ったよね? ね? 言ったよねー?)
聞き捨てならない言葉を耳にして、硯は何とか起きあがろうと身を捩ったが、身体はベッドに縫い付けられたように動かなかった。
「死ね……ッ!」
(もう少し包み隠して!)
初老は迎えたのであろう声の主は、続けて小声で呪詛のような何かを呟き始めた。もはや怪しげな魔教団に連れていかれ儀式の生贄とされた心持ちである。起きあがろうとして起きあがることはできなかった訳だが、むしろ寝てたままで良かった。あまりの怨恨に硯は慄くしかない。目が合ったら殺される。
重なる怨嗟の言葉が重くのしかかった頃、囁きの呪言とは別の音が耳に入った。
「アナリーさん、どうです。ご容態は」
ノックの音はしなかったが、開閉音と声が聞こえた。誰かが部屋に入ってきたようだ。
女の嗄れた声とは対照的な、いかにも女の子らしい高い声。どこか作り物めいたようにも聞こえるそれは、電話に出る時の母親を思い出させた。
「……命に別状はないそうよ」
掠れたような声が返事をする。硯に対して恨み節を言い続けていた彼女はアナリーと言うらしい。来訪者も思わず息を呑むぐらいに台詞に嫌だという感情が滲み出ている。
(このまま人が来なかったら殺されてたんじゃないだろうか)
硯の胸中の心配をよそに、2人は会話を続けていた。どれも硯に身のある話ではなく、医者の所見やら薬やらの説明をしている。明瞭に聞こえるそれは、硯の耳に聞き馴染んだ日本語のようだ。異世界の言語設定と言うのはやはり都合がいいようにできている。問題はここがどのような異世界であるかを、全く把握できていないことだ。
「では、私はこれで」
「はぁい。あとはハルニエにお任せください!」
ハァ、と人に聴かせるような溜息を吐きながらアナリーは部屋を出ていった。ここには先ほどの来訪者──ハルニエと自称する人物が残された。アナリーもハルニエもどちらも聞いたことのない名前だ。やはりここは、硯にとって未知の異世界だった。
そんな現状に硯の心中は穏やかではなかったが、かと言って焦燥でいっぱいでも無かった。疑問2割、興味8割と言った具合である。
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