7日目②
(13:00〜14:30)
カラン……と、小さなベルの音がした。
木製の扉を押して、私たちはカフェの中へ入った。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
中は、静かで、少しだけ時間が止まったような空間だった。
床も天井も、テーブルや椅子までも、温かみのある無垢の木で統一されていて、ほんのり木の香りが鼻先をかすめる。
壁際には古い蓄音機が飾られていて、かすかにクラシックが流れていた。
音は小さくて、窓の外から聞こえてくる蝉の声と重なると、まるで音の重なりさえ計算された風景画のようだった。
「いい感じ〜……めっちゃ落ち着くね、ここ」
「うん、初めて来たけど、すごく好きかも」
私と真由は店内の中央あたり、窓のそばの席に腰を下ろした。
クッション付きの椅子に体を預けると、じんわりと背中に柔らかさが広がる。
グラスに注がれたアイスティーをひと口。
透明なグラスの表面には、細かく水滴が浮かんでいた。
ひんやりとした感触が唇をなで、のどをすうっと通っていく。
ほんのりとした柑橘系の香りが広がって、火照っていた身体の芯まで冷やされるようだった。
「チーズケーキ、やっぱ頼もっか」
「だね、せっかくだし」
メニューを見ながら笑い合っていると、ふいに、すぐ近くのテーブルから声がした。
「……えっ? 理彩先輩?」
その声を聞いた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
顔を上げる。
そこにいたのは、松島優那だった。
薄いベージュのワンピースに、繊細なシルバーのネックレス。
昔と変わらない、柔らかく微笑む表情——
だけど、どこか少し大人びた雰囲気もあった。
「あ……優那ちゃん……?」
思わずそう呼んでいた。
頭の中で“え?”という声がもう一つの私から上がったけれど、口から出たその言葉に、私はなぜか違和感を抱かなかった。
優那も、驚いたように目を丸くしながら、それでもすぐに笑顔になった。
「ええ〜っ、やっぱり理彩先輩だ!久しぶりですっ。こんなところで会うなんて〜!」
「あ……うん、ほんとに偶然だね。優那ちゃん、変わってないなあ……」
思い出せない。
言葉は出てくるのに、心に浮かぶはずの映像が霞んでいる。
たしかに——
私は、優那と付き合っていたはずだ。
“理史”として。
大学の後輩で、明るくて、一緒にいると元気になれる子で——
……で、何をした?
どこへ行った?
手を繋いだ感触は?
名前を呼び合った声は?
キスをしたときの、あの微かな緊張と幸福感は——?
(……なんで……思い出せないの……?)
まるで靄の中に手を伸ばしているみたいに、何も掴めない。
記憶の輪郭が、指の隙間からこぼれ落ちていく。
「先輩、今日はお友達と?」
「あっ、うん。こっちは、同期の真由。警察で一緒に働いてるの」
「こんにちは、初めまして、永瀬真由です」
真由がすっと挨拶すると、優那は嬉しそうに微笑んで立ち上がった。
「松島優那です!理彩先輩の大学の後輩で……めっちゃ仲良くしてもらってたんです」
「わあ、理彩ちゃん、大学の後輩にも人気だったんだ〜!優那ちゃんって、あの優那ちゃんね!」
「え、知ってたっけ?」
「うん。前に話してたじゃん、大学の頃に仲良かった後輩の子って。たしか“優那ちゃん”って……」
私、そんな話……した?
……してない。
してないはず。
“理史”だった私が真由に、優那のことを語ったことなんてなかった。
でも、真由の様子に違和感はない。
まるで、それが自然なことであるかのように、ふるまっている。
「私、ここのカフェたまたま見つけて、すっかり気に入っちゃって……静かで落ち着くし、読書にもぴったりなんですよ〜」
優那がテーブルの端に置かれた文庫本を指さす。
(そうだ……優那は、よく読書してた。たしか……小説が好きで、私の部屋に遊びに来たときも……)
——いや、それって“私の”部屋だったっけ?
記憶が、またかき混ぜられる。
「警察官、目指してるって聞いたとき、すっごくかっこいいなって思ってたんですよ、先輩。あの頃から真っ直ぐでしたよね」
「……そ、そう?」
思いがけず頬が熱くなった。
優那の目が、真っ直ぐにこちらを見ていて——その眼差しは、憧れと親しみの交じった“後輩”のそれだった。
私を「憧れの女性の先輩」として見ている。
(……私と優那の“関係”は、こんなだったの?)
違う。
違うはずだった。
私たちは、もっと近かった。
たしかに付き合って——いた。
でも、その「いた」は、もう遠くて、頼りなくて、霧に覆われている。
「私、このあとちょっと予定があるんですけど……よかったら、今度またお茶でもしませんか?連絡してもいいですか?」
「あ、うん……もちろん。連絡先、変わってない?」
「うん、大丈夫です」
笑いながらスマホを取り出して、連絡先を交換する。
そのやり取りすらも、“理彩”としてごく自然に行っている自分に気づく。
優那が去っていったあと、真由がにこにこと笑いながら私の顔を覗き込んできた。
「優那ちゃん、めっちゃいい子だったね。なんか、理彩ちゃんと話してるとき、すっごく嬉しそうだったよ?」
「……そう、だね」
声が少しだけ震えた。
グラスの結露が、テーブルにぽたりと落ちて、丸いしずくを作っていた。
私の中で、記憶が静かに、でも確実にすり替わっていく。
“理史としての私”が、ゆっくりと遠ざかっていく。
まるで——
最初から、なかったものみたいに。
(私は……ほんとうに、理史だったの?)
でも、今ここにいる私は、間違いなく“山城理彩”だ。
それを否定する誰もいない。
世界が、私をそう見て、そう呼んで、そう記憶している。
私は——
私は、いったい、誰なんだろう。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
遠くの空の下で、夏が確かに続いている。
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