6日目④
(16:30〜19:00)
交番の中は、少しだけ蒸していた。
扇風機の風が、書類の端をカサカサと揺らしている。
「ねぇ、理彩ちゃん。明日の午後さ、またケーキ行かない?この前のカフェの……ほら、チーズのとろけるやつ」
「えー、また甘いもの?でも、行きたいかも……あそこ、店員さんも可愛かったし」
「うんうん!理彩ちゃんと行くと映えるからさ~、映え係、よろしくね」
私は苦笑しながら、署名済みの報告書にスタンプを押した。
トン。トン。トン。
心地よくリズムを刻む音。
交番の窓の外では、蝉の声がせわしなく響いている。
夏は、まだ終わらない。
——そのときだった。
「……はい、こちら○○交番」
真由が受話器を取った瞬間、その表情が変わった。
「交通事故!?場所はどこですか?……はい、了解、すぐ向かいます」
彼女の声が硬くなる。
私もすぐに立ち上がり、帽子を被り直す。
「理彩ちゃん、○○中の裏通り。下校中の子がはねられたって」
「わかった、行こう!」
私たちは小走りに交番を出て、駐車場のパトカーに乗り込む。
ドアが“バタン”と鳴って閉まり、キーをひねった瞬間——
エンジンが“ヴォン”と唸るように目を覚ました。
現場は、想像していたよりも凄惨だった。
「……っ」
口の中が一瞬で乾いた。
アスファルトの上に、制服姿の女子中学生が倒れている。
横転した黒い軽自動車が、ガードレールに突っ込んだまま動かない。
倒れた少女のカバンからは、部活用のラケットがはみ出ていた。
テニス部か、バドミントン部か。
「私は負傷者の確認!真由は周囲の安全確保をお願い!」
「了解!」
私たちは無意識に、でも完璧に動いていた。
走る。
心臓が“ドクン、ドクン”と高鳴る。
でも足は、ちゃんと動く。
この身体でも——
しっかり、力が出る。
汗が額をつたい、制服の襟を濡らす。
けれど、そんなこと気にしている余裕なんてない。
「……大丈夫!?意識ある? 聞こえるま!?」
少女の傍らに膝をつき、そっと頬を叩く。
かすかに眉が動いた。
「……ぃた、い……」
声が、小さく漏れた。
よかった、生きてる。
「安心して、すぐに救急車が来るからね。動かないで、深呼吸できる?」
頷きが、かすかに返る。私はその手をそっと握った。
——小さくて、細い。
でも、この手は……
ちゃんと私の中に「守りたい」って思わせる。
無線で本部と連携を取りながら、真由と合流。
彼女が周囲の通行人に安全な位置へ誘導していた。
「後続の車両、もうすぐ着くって!」
「了解、あと2分くらいならこの場でキープできる!」
サイレンが近づいてくる音が、風を割るように響いた。
“ウゥゥゥ……!”
その音がまるで、自分の血流と重なって聞こえた。
——私は、ちゃんと動けてる。
この声も、腕も、脚も——
全部、ちゃんと“機能”してる。
それは、自分の身体が「女であること」を否定していないという事実だった。
やがて、救急車が到着し、搬送が始まる。
「お母さん……っ!娘は……娘は……っ!」
駆け寄ってきたのは、息を切らせて泣きじゃくる中年の女性だった。
少女の母親だ。
彼女は担架に乗せられた娘の手を握りながら、涙を止められずにいた。
私と真由の姿を見つけたその瞬間、彼女はまっすぐに駆け寄ってきた。
「本当に……本当にありがとうございました……!あなたたちが……あなたたちがいてくれて……」
そう言って、深々と頭を下げてくる。
「そんな、当然のことを……」
私は言葉を濁すしかなかった。
だって、当然じゃない。
この“身体”で、あの子を守れたこと——
それは私にとって、奇跡のような確信だったのだから。
(……できたんだ、私……この姿でも)
真由が隣で、私の腕に軽く触れる。
「お疲れさま、理彩ちゃん」
私は頷いた。
汗が頬を伝って、制服の襟元に落ちていく。
(この汗も……この匂いも、全部“私”なんだ)
日が落ち始めた頃、交番に戻って事故処理の報告書をまとめていた。
シャツが少し湿っていて、腕を動かすたびに冷たく感じる。
「……これで全部、かな。あとは当直に引き継いで」
「うん、理彩ちゃん、ホントお疲れ。今日の対応、完璧だったよ」
「真由のおかげだよ。一人だったら、あんなにうまくできなかった」
「えへへ、私もそう思ってた~」
いつもの軽口に、ふっと笑いがこみ上げる。
この他愛ないやりとりが、どれだけ救われることか。
交番を出て、署に戻った頃には、空に夜の気配が滲み始めていた。
ロッカー室で制服を脱ぎ、朝着てきた私服に着替える。
淡いベージュのノースリーブのブラウス。白いロングスカート。
鏡の中の自分を見て、なんとなく髪を耳にかけてみた。
(……これが、今の“私”)
今日一日で、何人の人に感謝されただろう。
あの少女に、母親に、通行人に——
“女性の警察官”として、受け入れられていた。
でも、それは「女だから」じゃなくて——
(……私だから、だったんじゃない?)
ふと、そんな声が、胸の奥から聞こえた気がした。
駐車場の空は、群青に染まりつつある。
風が少しだけ涼しくなって、汗ばんだ首元を撫でていった。
歩き出しながら、私はふと空を見上げた。
(……もしかして、私の『自分らしさ』って)
生まれた性でも、与えられた役割でもなくて——
誰かを守りたいって、心から思えるその“意志”なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸元のバッジが、少しだけ温かく感じた。
私は、歩き出した。
夜の街を。
私の足で——
私の“この姿”で。
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