2日目④

(18:00〜23:00頃)



ロッカーの扉を閉める、カチャリという音がやけに耳に残った。


制服から無難なシャツとスラックスに着替え、鏡をぼんやりと見つめる。

くすみひとつない白い肌に、汗を軽く拭っただけでも整ってしまう前髪。

そこに映るのは「私」じゃない、はずなのに、どこか見慣れたような気がする。



「おつかれ〜、理彩ちゃん。また明日ね〜」


軽やかな声が、背後からふわりと届いた。

振り返ると、真由がにこっと笑って、タオルを肩にかけたまま手を振っている。


「……うん、また明日」


無意識に返したその言葉が、思いのほか自然で、背筋がゾクリとした。

どこにも「理史」はいなかった。


ただ、「理彩」がいた。

口からこぼれたのは、完璧に演じられた“その人”の声だった。


「……じゃあね〜!」


真由の声が遠ざかっていく。

私は曖昧な笑みを張り付けたまま、女子更衣室を後にした。



外の空気は、すでに夜の匂いを帯びていた。

アスファルトの照り返しもようやく落ち着いて、街灯の灯りが滲んでいる。

無言のまま警察署を後にし、帰路についた。


コンビニの冷蔵棚の前で、私は立ち尽くしていた。


弁当コーナーには、手軽な丼ものやパスタ、サラダにデザート。

なにを選んでもいいはずなのに、どれも喉を通る気がしない。

隣でOL風の女性が手に取ったサラダチキンとスムージーを一瞥して、自分の手元に視線を落とす。


——この私の姿で、どう見られてるんだろう。


目を合わせたわけでもないのに、周囲の視線が刺さる気がした。

背中に貼り付いたシャツが妙に意識されて、急いで冷やし中華とヨーグルトをかごに入れた。


レジに並ぶあいだも、ずっと落ち着かなかった。

ヒールの音、男性客の目線、店内BGM――


すべてが他人の世界に思えた。



「……ただいま」


誰もいない部屋に声をかけるのは、まだ癖だ。


玄関の靴は、昨日自分で並べたスニーカーとローファーだけ。

けれどその並び方すら、どこか「女性らしい」気がしてしまって、気味が悪い。

冷蔵庫の位置、コップの場所、シャワーの温度設定、すべてを私は「知って」いるのに、そのひとつひとつが他人の持ち物のように感じられる。


テーブルに冷やし中華を広げ、テレビもつけずに箸を動かす。

味はした。


でも、空っぽの胃袋よりも、胸のあたりがひどく重かった。


——演じて、気を配って、笑って、しっかりしてる「ふり」をして。


それだけで、一日が終わっていた。



浴室に湯気が満ちていく。


シャワーを肩に浴びながら、私は鏡を見ないようにしていた。

濡れた髪が額にはりつき、背中を伝う湯がやけに敏感に感じられる。


変わってしまったこの体は、もう見慣れてもおかしくないはずなのに、ふとした瞬間に「誰だ、こいつ」と思ってしまう。


湯気のなかで、私の輪郭が曖昧になっていく。


理史だったころの記憶は、はっきりしているのに。

理彩としての生活は、確実に「なじんで」きている。


それが、恐ろしかった。


——演じてるうちに、私は本当にこの役になってしまうのか?


浴室の明かりが、白くまぶしかった。

それが何よりの皮肉だ。

自分という存在が薄れていくのに、こんなにもはっきりと照らされているなんて。



パジャマに着替えて、髪を乾かすのもそこそこに、私はベッドに倒れ込んだ。


寝具の匂いも、枕の高さも、慣れているはずなのにどこか馴染まない。

目を閉じると、昼間の真由の笑顔がふと思い浮かぶ。

「理彩ちゃん」という声が、耳の奥に残っていた。


「……明日も、このままなのか」


小さく、吐くように呟いた。


誰も答えない。


天井を見つめるうちに、自分の形がふわふわと溶けていく気がした。


私は誰だ?

どこまでが「私」なんだ?


肉体も、名前も、他人のものになって、それでもなお「私」を名乗る資格があるのだろうか。


この部屋に「私のもの」なんて、本当はひとつもないのかもしれない。


やがて、目蓋の裏で何かがゆっくりと沈んでいった。


静かな夜だった。

息を潜めるように、私の存在が、少しずつ世界に馴染んでいく気がした。

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