2日目④
(18:00〜23:00頃)
ロッカーの扉を閉める、カチャリという音がやけに耳に残った。
制服から無難なシャツとスラックスに着替え、鏡をぼんやりと見つめる。
くすみひとつない白い肌に、汗を軽く拭っただけでも整ってしまう前髪。
そこに映るのは「私」じゃない、はずなのに、どこか見慣れたような気がする。
「おつかれ〜、理彩ちゃん。また明日ね〜」
軽やかな声が、背後からふわりと届いた。
振り返ると、真由がにこっと笑って、タオルを肩にかけたまま手を振っている。
「……うん、また明日」
無意識に返したその言葉が、思いのほか自然で、背筋がゾクリとした。
どこにも「理史」はいなかった。
ただ、「理彩」がいた。
口からこぼれたのは、完璧に演じられた“その人”の声だった。
「……じゃあね〜!」
真由の声が遠ざかっていく。
私は曖昧な笑みを張り付けたまま、女子更衣室を後にした。
*
外の空気は、すでに夜の匂いを帯びていた。
アスファルトの照り返しもようやく落ち着いて、街灯の灯りが滲んでいる。
無言のまま警察署を後にし、帰路についた。
コンビニの冷蔵棚の前で、私は立ち尽くしていた。
弁当コーナーには、手軽な丼ものやパスタ、サラダにデザート。
なにを選んでもいいはずなのに、どれも喉を通る気がしない。
隣でOL風の女性が手に取ったサラダチキンとスムージーを一瞥して、自分の手元に視線を落とす。
——この私の姿で、どう見られてるんだろう。
目を合わせたわけでもないのに、周囲の視線が刺さる気がした。
背中に貼り付いたシャツが妙に意識されて、急いで冷やし中華とヨーグルトをかごに入れた。
レジに並ぶあいだも、ずっと落ち着かなかった。
ヒールの音、男性客の目線、店内BGM――
すべてが他人の世界に思えた。
*
「……ただいま」
誰もいない部屋に声をかけるのは、まだ癖だ。
玄関の靴は、昨日自分で並べたスニーカーとローファーだけ。
けれどその並び方すら、どこか「女性らしい」気がしてしまって、気味が悪い。
冷蔵庫の位置、コップの場所、シャワーの温度設定、すべてを私は「知って」いるのに、そのひとつひとつが他人の持ち物のように感じられる。
テーブルに冷やし中華を広げ、テレビもつけずに箸を動かす。
味はした。
でも、空っぽの胃袋よりも、胸のあたりがひどく重かった。
——演じて、気を配って、笑って、しっかりしてる「ふり」をして。
それだけで、一日が終わっていた。
*
浴室に湯気が満ちていく。
シャワーを肩に浴びながら、私は鏡を見ないようにしていた。
濡れた髪が額にはりつき、背中を伝う湯がやけに敏感に感じられる。
変わってしまったこの体は、もう見慣れてもおかしくないはずなのに、ふとした瞬間に「誰だ、こいつ」と思ってしまう。
湯気のなかで、私の輪郭が曖昧になっていく。
理史だったころの記憶は、はっきりしているのに。
理彩としての生活は、確実に「なじんで」きている。
それが、恐ろしかった。
——演じてるうちに、私は本当にこの役になってしまうのか?
浴室の明かりが、白くまぶしかった。
それが何よりの皮肉だ。
自分という存在が薄れていくのに、こんなにもはっきりと照らされているなんて。
*
パジャマに着替えて、髪を乾かすのもそこそこに、私はベッドに倒れ込んだ。
寝具の匂いも、枕の高さも、慣れているはずなのにどこか馴染まない。
目を閉じると、昼間の真由の笑顔がふと思い浮かぶ。
「理彩ちゃん」という声が、耳の奥に残っていた。
「……明日も、このままなのか」
小さく、吐くように呟いた。
誰も答えない。
天井を見つめるうちに、自分の形がふわふわと溶けていく気がした。
私は誰だ?
どこまでが「私」なんだ?
肉体も、名前も、他人のものになって、それでもなお「私」を名乗る資格があるのだろうか。
この部屋に「私のもの」なんて、本当はひとつもないのかもしれない。
やがて、目蓋の裏で何かがゆっくりと沈んでいった。
静かな夜だった。
息を潜めるように、私の存在が、少しずつ世界に馴染んでいく気がした。
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