2日目③
(9:00〜17:30頃)
――「違う」と思うたびに、世界はもっと私を「理彩」にしていく。
交番のカウンター越しに、住民の男性が地図を指差して話している。
「ここの交差点なんだけどね、最近夜になるとバイクの音がひどくてさ。たぶん、集会してんだよ。見回り、強化してもらえると助かるんだけど」
「はい、わかりました。近隣の状況も確認しながら、巡回のタイミングを調整してみますね」
そう答える自分の声に、ほんのわずかな違和感が混じる。
抑えたトーン、語尾の丸さ、目線の柔らかさ。
自然に出てくるようになってきたそれらが、むしろ自分を追い詰めていた。
「いやあ、やっぱお姉さんに言うと話しやすくていいね。なんかこう、柔らかい感じがしてさ。頼りにしてるよ、ホント」
「あ、ありがとうございます……」
にこり、と作った笑顔が顔に張り付く。
「お姉さん」
その一言が、思いのほか深く胸に刺さった。
言ってる本人に悪気はない。
それどころか、きっと褒め言葉のつもりだ。
けれど私は、返す言葉の裏側で、喉元の熱を押し殺すしかなかった。
——私は「男としての信頼」じゃなく、「女性としての愛想の良さ」で評価されている。
そう思ってしまう自分に、嫌悪感すら湧く。
でも……
そう感じずにはいられなかった。
午前中は交番内での住民対応や資料整理が中心だったが、午後からは真由とペアで巡回に出ることになった。
「今日は公園ルートだね。日陰が多いから助かるわ〜」
「だよね~、熱中症も怖いし……」
制服の袖から伸びた自分の腕を見下ろす。
細くて白い。
その手が、警棒や無線を扱うたびに、ひどく頼りなく見える。
「昨日の夜、彼氏からLINE来てさ〜。『最近忙しい?』って。いや、こっちも当直明けだったんだから察してよ、って話だよね〜」
真由の話題に相槌を打ちながら、私はときどき彼女の横顔を盗み見る。
その表情は、ごく自然だった。
私を「女友達」として、ごく普通に扱っている。
「理彩ちゃんも、彼氏とかいるんでしょ? あれ、いない系?」
「えっ、あ、いないよ……」
「えー、もったいなっ! 絶対モテるって。署の人とか、狙ってる人いそうだよね〜」
「いやいや、そんなこと……ないって」
笑いながら否定する。
否定しながら、喉の奥が乾いていく。
「理彩ちゃんはしっかりしてるし、包容力あるし、そういうの男子好きだよ〜」
「しっかりしてる」のは、理史だったころの経験と判断力だ。
「包容力」なんて、演じてるだけの理彩にあるとは思えない。
でも彼女は、本気でそう思って言っている。
それが、どうしようもなく、苦しかった。
巡回を終えて戻った交番では、雑用をこなしながら報告書の入力作業に追われた。
「あ、山城さん。こないだの交通トラブルの件、資料届いてるよ」
上司の芦田係長がファイルを持ってやってくる。
ひとつ上の年齢で、無精ひげにちょっと厳つい顔。
けれど、口調は柔らかい。
「ありがとうございま……す」
ファイルを受け取るとき、芦田さんの指が私の指に少しだけ触れた。
ただ、それだけのことなのに、指先がびくっと跳ねた。
「おつかれさま。最近、本当に頼りにしてるよ、山城さん。女性の目線って、やっぱ大事だからね」
「……はい、ありがとうございます」
「女性の目線」。
「山城理彩」の視点。
それが役に立っているという評価なのは、わかってる。
だけど、それでも……
「私」として認められているわけじゃない。
「私」は、山城理史で――
もう、誰の記憶にも存在しない人間で――。
*
昼休憩は、女性職員だけの小部屋でとることになった。
「この日焼け止め、マジで焼けないよ!」
「マジ? どこの?」
「ロフトで売ってたやつ~」
弁当をつつきながら飛び交う会話は、まるで異国の言語のようだった。
話題は、日焼け止め、髪型、ドラマ、カフェ、そして「彼氏」。
「理彩ちゃんはどんな髪型好き? やっぱショート派?」
「え、あ……そう、かも。スッキリしてるほうが楽だから」
「やっぱそうだよね〜。顔立ち的にロングも似合いそうだけど!」
「……ありがとう、ございます」
スプーンを持つ手が、微かに震えていた。
視線を下げたまま、味のしないヨーグルトを口に運ぶ。
私は、笑顔を浮かべていた。
けれど、それはどこか「上手に変装している」泥棒のようでもあった。
*
夕方、交番の掃除を終え、引き継ぎのために署へ戻る。
ふと目が合った新人の男性職員が、にこりと会釈してきた。
「おつかれさまです、山城先輩!」
「おつかれさま」
返事をしながら、その「先輩」という響きが胸の奥に残る。
彼の目には、私は「頼れる女性の先輩」として映っている。
頼られていることは、素直に嬉しい。
でも――
それは「理史先輩」への憧れとは違う。
あのころの私は、同じ制服の下で、同じ目線を持って、同じ現場に立っていた。
今の私は、違う。
扱われ方も、見られ方も、すべてが違う。
世界は、私を完全に「山城理彩」として認識している。
まるで、理史なんて存在しなかったかのように。
帰り道、夕暮れが街をゆっくりと茜に染めていく。
アスファルトの熱が、足元からじんわりと昇ってきた。
私は、歩きながら自分の足音を数えていた。
コツ、コツ、コツ……と、軽く響くその音さえ、どこか他人のもののように感じられた。
——ねぇ、私は誰なんだろう。
心の奥で、そんな声が、またひとつだけ響いた。
その声に答えられる者は、どこにもいなかった。
世界が静かに「理彩」という存在で満たされていくなかで、私はただ一人、ひとつの真実だけを見失わないように息をひそめていた。
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