第22話 計算資源の壁と、小さな光明

「…今月のクラウド利用料、見たか?」


数日後の昼下がり。

慧の部屋で、佐伯がコーヒーカップを片手に、青ざめた顔で尋ねてきた。

その声は、普段の彼からは想像もつかないほどにか細い。


慧は、モニターから目を離さずに答える。

「ああ。昨日、請求予測の通知が来ていた」


「あれ、予測っていうか、もはや宣告だよな。このままだと、俺の今月のランチ、全部もやし炒め定食(ご飯抜き)になるんだけど…!」

佐伯は、まるで世界の終わりのような悲壮感を漂わせている。


慧は、ふう、と小さく息を吐いた。

そして、ようやく佐伯の方を向く。

その表情は、いつもの冷静沈着さを保ってはいたが、どこか申し訳なさそうな色が滲んでいた。

「…善処する」


「そこは『俺も半分持つ』とかじゃないのかよ! いや、そもそもお前の道楽に付き合ってる俺が言うのも何だけどさ!」

佐伯が、大げさに頭を抱える。


慧は、わずかに口角を上げた。

「栄養バランスには気をつけてくれ。倒れられたら困る」


「そこかよ!」

盛大なツッコミが、部屋に響いた。

だが、その声にはもう悲壮感はなく、いつもの軽快さが戻っていた。


計算資源の壁。

それは、AI開発者にとって永遠の課題だった。

特に、Transformerのような最新のアーキテクチャは、その学習と推論に膨大なGPUパワーを消費する。

佐伯が会社の余剰リソースを融通してくれてはいたが、それも限界に近づいていた。


慧は、限られたリソースの中で最大限の成果を出すために、あらゆる工夫を凝らした。

学習データの選別。

アテンション機構の枝刈り。

混合精度での学習。

その試みは、まるで一滴の水も無駄にしない砂漠の旅人のようでもあり、あるいは、奨励会時代に寝食を忘れて詰将棋を解き続けた、あの頃の自分にも似ていた。


綾香の思考の癖。

ニューラルネットワークのパラメータの僅かな揺らぎ。

その一つ一つを、慧は自分の五感で感じ取ろうとしているかのようだった。


そんなある日。

白鳥から送られてきた、彼女が個人的に進めていた小規模な実験のログデータが、慧の目に留まった。

それは、綾香のモデルとは異なる、よりシンプルな構造のTransformerを、ごく少量のデータで学習させた結果だった。

ほとんど参考にならないだろう、と白鳥自身は謙遜していたが、慧はそのログの中に、無視できない「何か」を見つけた。


「…この部分だ」

慧の指が、モニター上の一つのグラフをなぞる。

特定の局面における、AIの評価値の推移。

ほとんどの局面で乱高下を繰り返すそのグラフが、ある種の複雑な駆け引きの直後、ほんの一瞬だけ、人間が「形勢良し」と感じるであろうポイントで、鋭く上向いていた。


「このタイミングでの評価値の反応…偶然か? いや、違う…」

慧の脳が、高速で回転を始める。

白鳥の小さな実験で見せた、AIの評価値の微細な、しかし意味ありげな反応。

それが、綾香の巨大なネットワーク構造の、どこに繋がるのか。


盤面の局所的な駒の配置パターンを捉えるCNN。

駒同士の広域的な関係性や、盤全体の戦略的意味を理解しようとするTransformer。

この二つの異なる強みを持つモジュールを、どうすればもっと滑らかに、そして深く連携させられるのか。


(…駒の位置そのものが持つ、将棋特有の意味だ)

慧の思考が、一点に収束する。

(単なる座標ではない。それぞれのマスが持つ戦略的な価値、駒の種類と位置によって生まれる利きや支配関係、玉の堅さや攻防の要衝といった「位置の特徴」。それを、Transformerがより理解しやすい形でCNNからの情報に織り込めれば…!)


それは、盤面をより意味のある「地図」としてAIに提示し、CNNが抽出したパターンとTransformerが見るべき関係性の間に、より豊かな「文脈」を与える試みだった。

駒の配置という「静的」な情報に、その位置が持つ「動的」な意味合いを付与する。

それによって、Transformerはより将棋の本質に近い思考を獲得できるのではないか。


「…見つけたかもしれない」

慧の口から、思わず声が漏れた。

それは、暗闇の中でようやく見つけた、一本の細い糸のような光明だった。

まだ不確かで、脆いかもしれない。

だが、その糸をたどっていけば、必ずどこかへ繋がっているはずだ。


佐伯が、慧のただならぬ気配を察して、顔を上げた。

「どうした、桐山? 何か閃いたのか?」


慧は、ゆっくりと頷いた。

その瞳の奥に、確かな光が宿っていた。

「ああ。綾香が、もう一段階進化できるかもしれない」

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