第15話 月下の胡弓

 犬坂毛野と犬村大角が再び合流したのは、美濃の山あいにある静かな湯治場だった。

 月夜に照らされた木造の湯屋には、不思議な旋律が響いていた。

 それは三味線にも似た、胡弓にも似た、しかし何かが違う――まるで、過去を歌うような音だった。


 「……誰だ?」


 毛野が屋根の上に目をやると、そこにいたのは、薄紅の衣に身を包んだ異様な女。


 「昔むかしの、そのまた昔……人の情けに泣く者がいたとさぁ……」


 気だるげな口調で呟くその女は、目尻に哀しみを宿していた。


 「名を聞いても笑わぬでおくれよ。あたしは――研ナオコ」



---


 哀の唄い手


 旅芸人でもなく、くノ一でもなく。

 だが彼女の身のこなしは忍びのように軽く、言葉の刃は剣のように鋭い。


 「元は、根来の外れで拾われてね。師は一度も名を名乗らなかった。

 けど唄と毒、それから心を斬る技だけは、たっぷり教わった」


 湯けむりの中、彼女は一枚の札を取り出した。それは紙とも布ともつかぬ、黒く滲んだ護符。


 「これ、“哀の札”。人の心に触れると、封じた記憶を引き出す……

 でもね、見るもんじゃないよ。見ると泣く。泣くと戻れない」



---


 研が持つ過去


 「研ナオコ、お主は何を求めてここに?」


 犬坂毛野が問う。

 彼女は胡弓の弦を一つ、ゆるりと緩めながら答えた。


 「……“彼”を、止めに来たのさ」


 「彼?」


 「“月下の道化”……いや、“鬼道の花形”。

 江戸を騒がす、あの**鬼面歌舞伎者おにめんかぶきもの**よ」


 その名を聞いて、犬村大角の眉が動いた。


 「赤備えの亡霊が、彼の背後にいるという噂もある」


 「だからこそ、哀の札が要る。彼の“心”を止めるには、それしかないのよ」



---


 再会の予兆


 月が雲に隠れた瞬間、研ナオコの姿も消えた。

 残されたのは、一枚の破れた短冊。


 > たとえ鬼とて 人の夢を見し夜は

 > 唄に沈みて 涙を忘れん


 毛野はそれを手に取り、胸の護符と重ねた。

 ――哀しみすら、文にできるのなら。



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