その5
「お前たちが喧嘩をしたという話だが」
櫂を漕ぎながら、江若は白扇と花悠に話しかける。
「白扇さんが私の臭いに耐えられないと、急に……」
「そうらしいな」
どうも花悠の纏う薬の匂いが強いようだ。とはいえ、普段の白扇はそんなことでいちいち文句を言ったりしない。
「白扇、気がかりがあるのか。それで思わず強く当たってしまったのではないか?」
「…………」
江若の前で、二人の夫人は気まずそうに座っている。
「もしや、子供のことか」
「……はい」
白扇は三十一歳になった。江若という成功者の家に嫁いだだけに、実家からは跡継ぎを期待されている。わかっているが、子供に縛られたくないというのが今の江若の考え方だった。
――跡継ぎを作らないのか? お前の常識外れには呆れるよ。
かつての友にも言われている。
江若にはすでに両親がいない。十代の頃に病気で早死にした。生家は貧しく、父も母も薬すら買えない有様であった。
――俺はこんな最期、絶対にごめんだ。
両親を失った江若は、石の彫刻を作っている父の知人の家で暮らした。そこで材料となる石を堀りに行く旅に何度か同行させてもらった。そのうちに思ったのだ。
――石は高い。ならば、鉱山を当てたら成功できるかもしれない。
覚悟が決まると、江若はすぐ冒険に出かけた。宝の山を探して暁国の各地を歩いた。食べ物がなくなり、川の水だけで過ごした日もある。虫や草の葉をかじったことも。
そうしてついに見つけた金の山を、江若は慎重に成長させていく。
まずは少しずついろんな地方の商人に売って元手を増やした。金山の存在がばれないよう、コツコツと売りさばき、富を増やす作業に何年もかけた。そうして膨らんだ資金を元手に人夫を雇い、大々的な鉱山の採掘を開始した。貯めているあいだに経営術を学んだことも役に立った。
――俺は父や母のようにはならん。派手に生きる。自分のためだけにだ。
だから夫人を六人も囲うようなこともした。後先など考えていない。派手な花火を散らして終えると決めたのだ。こんな父親の子供など、絶対に不幸になる。
江若は確信しているからこそ、子供を作らないできた。
しかし妻を娶った以上、自分のことだけを考える生活には限界があるのかもしれない。
「俺は子供の面倒など見られんぞ。お前はそれでも耐えられるのか」
白扇がハッとしたように顔を上げた。潮目が変わったのを感じたようだ。
「俺は自分本位の男だ。お前の思うようにはならない。子ができたとしてもお前を部屋に呼ぶ。本気だぞ。それでもかまわないというのか」
「……かまいません。私が大切に育てます」
「家のためなどとつまらんことを考えていないだろうな? 家族が望んでいるからという理由で子をなしても、そいつは間違いなく幸せになれん。不幸な子供なら、いっそ生まれない方がよい」
月明かりだけでも、白扇の目が潤んでいるのがわかる。
「そこまで考えてくださるのですね」
「面倒ごとは避けたいからな」
「……心配ありません。私は、私の意志で子供がほしいのです。必ずや立派に育てると誓います」
江若は櫂を漕ぎながら鼻を鳴らした。
「ならば、次は
套は、牛の胃袋を使った男の象徴にかぶせる膜だ。これで子ができるのを防ぐ。
「ありがとうございます、旦那さま……」
震える声で白扇が言った。子供のことでよほど苦しんでいたようだった。
「よかったですね、白扇さん」
花悠が体を寄せる。白扇は嫌がらない。
「ごめんなさい、花悠さん。私、気が立ってどうかしていたわ。本当にひどいことを言ってしまった……」
「いいのです。わたしもいずれは同じことで悩むのかもしれません。恨んでなどおりませんから、あまり深く考えすぎませんよう」
「ええ、ありがとう……」
……月見舟でする話がこれか。まあ、解決したようだからいいか……。
白扇は、花悠を抱きしめて「ありがとう」を繰り返している。江若は腕を動かしながらそれを見つめていた。
そのうち他の夫人たちにも同じことを頼まれ、東江楼は自分の子供であふれかえるのか。江若としては想像したくない話だった。
……なんだか疲れてきたな。少し息苦しい……。
江若はその時になって、ようやく自分の体に起きた異変に気づいた。
わずかだった息苦しさが徐々に強まってくる。
長距離の移動からさほど休まず酒を飲み、舟を漕ぐ。
……やりすぎたか?
そんな思いがかすめたが、もう自分で抑えることはできない。
「ぐ、う……っ」
「旦那さま!?」
「どうなさったのですか!?」
「い、息苦しい……櫂を……」
「は、はいっ」
白扇が慌てたように櫂を受け取った。江若はとうとう耐え切れなくなり、その場に倒れ込んだ。仰向けになってあえぐ。喉から甲高い、嫌な音が漏れる。意識も薄らいできた。
……とんだ厄日だ……。
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