その4

「孫式、櫂は盗まれないよう西小房の近くに置いてあるの。持ってきてくれる?」

「はい、ただちに」


 夕食が終わると、孫式は水鶴から指示を受けた。

 江若も夫人たちもまだ話を続けていて、なかなか立ち上がらない。雪羅と蓮雨は食器の片づけがあるから、ここは水鶴の小間使いである孫式の出番というわけだ。開峡県での主人は銀斗開で、東江楼での主人は銀水鶴。孫式は二人の主人に仕えているのだ。


 廊下を渡って西邸へ行くと、使用人室につながる廊下へ入っていく。周囲を見回すと、使用人室――西小房の壁際に二本の櫂が置かれていた。孫式はそれを持ち上げて正門の方へ引き返す。なかなか重量があり、少し引きずってしまった。誰にも見られていないから、これくらいは許してもらおう。


「あなたには関係ない話なのにご苦労なことねえ」


 最初にやってきたのは紹青雅だった。優雅に笑っているが、どこか嘲りの響きを感じる。


「すぐ見つかったようね」


 水鶴も追いついてきた。渡せというそぶりを見せるので、孫式は二本とも手渡す。


「水鶴さん、さっきの演技はなかなかよかったわね」

「……なんのことでしょう?」

「酔ったふりくらい、私は気づいていたわよ。わざと大げさに反応して、白扇さんを退けないようにした。合ってるでしょう?」


 青雅は微笑む。話し方は高圧的な響きを持つものの、そこに下品さが感じられないのが、この第三夫人のすごいところだ。


「皆さん、やはり気づいておられたでしょうか?」

「さあ、どうかしら。奥様はわかっていたでしょうけど、白扇さんや景嵐さんは本当に酔っていると思っていたかもね」

「……あの、仲直りしていただきたいのは本心ですよ。あんなことでいがみ合いを続けても、東江楼にとってなんの益もありませんから」

「私だって同じ気持ちよ。まあ、旦那さまだって自分に原因があることはわかってるでしょうし、上手くやってくれるはず。期待しておきましょ」


 水鶴はこくこくとうなずいている。

 門へ続く階段の前で、水鶴、青雅、孫式の三人はしばらく立っていた。孫式は主人に櫂を渡したことを後悔していた。水鶴が二本とも持っているから、小間使いである自分の手が空っぽなのだ。それが落ち着かない。


「ようやく来たわね」


 江若が白扇と花悠の手を引いて廊下を歩いてきた。まさに両手に花。


「旦那さま、櫂の用意はできております」

「おう、助かる。――海燕! これを舟のところまで持っていってくれ!」

「はい!」


 門の外から海燕がやってきて、水鶴から二本の櫂を受け取った。そのまま走って出ていく。


「では、俺たちは月見舟を楽しんでくる。相手できないが今日は許せよ」

「ええ、もちろんでございます。その代わり、次の相手は私にしてくださいませ」


 青雅が妖艶に笑うと、江若は「よかろう」と楽しげに返した。

 三人が外へ行くのを見届けると、青雅は広間へ歩いていった。


「お部屋に戻らないのでしょうか」

「月凛様と景嵐様が来ないということは、広間から曹湖を眺めるということ。青雅様も気になるみたいね」

「では、水鶴様も?」

「そうね。こういう時は皆に合わせましょう」

「お供いたします」


 孫式と水鶴が広間へ戻ると、残った夫人たちが杯を傾けていた。


「皆様、まだお酒を?」


 水鶴が訊くと、月凛、青雅、景嵐がうなずく。


「わたくしたちも月見酒といきましょう。旦那さまが酔っ払って湖に落ちたら大変だから、その監視も兼ねてね」

「なるほど。でしたらわたしと孫式も一緒に」


 孫式はあらためて自分の席につく。今度は水鶴が隣にいるので安心感がある。


 広間の北は壁がなく手すりだけだ。東側は半分までしか壁がない。冬場は上階から布を垂らして風雪を防いでいたが、ようやくそれも取り払われた。


 ここからは曹湖の様子がよく見える。

 満月が湖上に浮かび、かすかに揺れている。視界の右側からゆっくりと、小舟が進んでくる。


 金山を見つけるまで積極的に冒険に出ていたという江若は、自分で舟を漕ぐのが好きだという。水鶴も舟に乗せてもらったことがあると前に聞かせてもらった。


 小舟は湖の中央へ向かってゆっくりと進んでいく……。

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