その5

「玉芳様、少し、わたしのお部屋で話していきませんか?」


 とうとう三人になってしまった――と孫式が思っていたら、水鶴が玉芳に近づいてそんなことを言った。


「いいけど……水鶴さんでしたっけ?」

「はい、銀水鶴と申します」


 第六夫人は、客人にそっと顔を近づけて言った。


「月凛様について、わたしも思うところがあります。ぜひ、昔のお話を聞かせていただきたいのです」


 孫式は声を上げそうになった。


 ……水鶴様も、月凛様の弱みを握りたいのか? 恩人のはずでは……。


 東江楼での生活が始まった当初、水鶴は日常のことから江若と夜を過ごす時のこと、宴席のことまで月凛に教育してもらったと聞いている。


「でもあなた、さっき月凛のことを「お慕いしている」と言っていなかった?」

「宴席には流れというものがございます」


 水鶴はさらりと答える。


「月凛様から教育を受けていると、難しいことも多いのですよ。わたしは六人の中で一番年下、そして月凛様は正夫人ですから」

「ふうん。ま、あたしとしても疑いを晴らしてもらった恩があるからね」

「おつきあいいただけますか」

「なら、追加のお酒がほしいわ。じっくり話そうじゃない」

「ありがとうございます。――孫式、雪羅から蒼谷そうこくをもらってきなさい」

「は、はいっ、承知しました」


 蒼谷は暁国でも人気の高い名酒の一つだ。東江楼にはたくさん用意されている。

 この屋敷での勝手を覚えている孫式は、普段から住んでいる小間使いのように扱われることもある。江若が怒らないうちはいいのだろうが、家の人間でもないのに歩き回るのはよくないと、孫式はたびたび思う。


「雪羅さん、お酒を水鶴様のお部屋に運びたいのですが」


 医療房から空き部屋を一つ挟んだ隣にある厨房で、孫式は雪羅に声をかける。雪羅は食器を運び終えたところだった。


「そこの床下に冷やしてあるから持っていって」


 厨房の床下には、曹湖から流れていく川が走っている。そこに網を固定して飲み物を冷やすということを、東江楼ではやっているのだった。

 孫式は水流の中に並べてある瓶を二本掴むと、杯を持って西邸へ向かう。

 水鶴の部屋の戸を叩くと、主人はすぐに迎え入れてくれた。室内にはろうそくの明かりが灯っている。


「あなたにはこれをあげるわ」


 水鶴は葡萄を搾った飲み物を譲ってくれた。


「ありがとうございます。では、宿へ持ち帰って――」

「ここにいていいわよ」

「え? ですが……」

「玉芳様もまだ心配があるようだし、あなたがいてくれた方がいいということよ」


 玉芳は黙って何度もうなずく。水鶴に何かされるかもしれないと気にしているのだ。


「えっと、お部屋の隅をお借りしてもよろしいでしょうか」

「好きにして」


 他に行き場がないのだった。水鶴の部屋の片隅に座って葡萄液に口をつける。近くの壁には予備のろうそくが並んでいた。水鶴はこうしたものを綺麗に並べないと気が済まないようで倒すと怒られる。孫式は少し、壁から距離を取った。


 水鶴と玉芳は窓際にイスを置き、向かい合っていた。


「昼間、月凛様が自分のお兄様を毒殺した、と言っておられましたね。あれの具体的なお話を聞きたいのです」

「そのことね。あれは絶対、月凛がやったことなのよ」


 すでに宴会の酒でだいぶ酔っているのか、玉芳の頭はゆらゆらと安定しない。


「月凛には湖秀豪という兄がいた。禁軍では黎八将れいはっしょうの一人で、黎三位までのし上がった偉大なお方だったのよ」


 黎三位は禁軍でも上から十一番目の階級である。下に耀よう十二将、さらにめい十六将と続いていくのでかなり高い階級である。


「玉芳様は、その秀豪様のことがお好きだったのですね?」

「ええ……憧れの存在だったわ」

「それを、月凛様が殺した」


「あれはあたしと月凛が二十の時だったわ。ちょうど秀豪様は休暇で実家に戻ってきていた。その日、あたしが湖家の建物を見ていると、旅人風の人間が入っていったの。でもあたしにはわかった。その人間は間違いなく男装した月凛だった。旅装で顔を隠していたけど、あいつの歩き方は隠せていなかったの」


「そのあと、秀豪様が亡くなったのですか?」

「そうよ。湖家のご当主が騒ぎ立てて、もう街中大騒ぎ。怪しい男が入っていくのが見えた、秀豪様はそいつに毒を飲まされたんだって話が広まったわ。実際、秀豪様のお部屋には人を呼んで酒を酌み交わした様子があったのよ」

「見間違いではないのですか?」

「あたしは正しい」


 玉芳は少し怪しいろれつで断言した。


「そもそもね、あんなものを見なければあたしだって月凛が殺したとは思わなかったわ。でも見てしまったんだからしょうがないじゃない」

「何を見たのです?」


 玉芳は人差し指で、水鶴に顔を寄せろと指示を出す。しかし結局声が大きいのでほとんど意味はない。


「あたしは秀豪様に秘密の相談をしようと思って湖家に忍び込んだことがあるわ。その時、見てしまったのよ。――秀豪様と月凛が、寝台の上で裸になって絡み合っていたの!」


 孫式は思わず玉芳に顔を向けた。水鶴が固まっている。


「禁断の恋よ。秀豪様と月凛は、兄妹なのに愛し合っていたのよ! あたしは気づかれないように必死で抜け出したわ。本当に、あの時は頭が真っ白になった……」

「確かに、秀豪様と月凛様だったのですか?」

「間違えるもんですか。絶対にあの二人だった。癪だけど、月凛の美貌は認めるわ。秀豪様が妹に惚れてしまったのだとしても、仕方がないのかもしれない。でもね、この国でそれは許されていないのよ!」


 興奮したように、玉芳は壁を叩く。


「あたしだって男は知ってるけど、兄妹というだけであんなにも薄気味悪いものになるのね。あの衝撃は頭から離れない」

「しかし、それならなぜ、月凛様は秀豪様を殺さなければならないのです?」

「秀豪様の結婚が決まったからよ」

「お相手は?」

東騎とうき将軍、焔虎常えんこじょう様の娘さん。こんな縁談、断れるはずがないでしょう」


 東騎将軍は禁軍第五位の階級である。その上は大将軍、大軍師といった最高司令たちの席なので、将兵の最高位でもあった。


「国境遠征で他国と戦った時、秀豪様はめざましい活躍をした。その勇猛ぶりを虎常様がすっかり気に入ったんですって。焔家では女の子ばかりが生まれて、虎常様は男児の跡継ぎに悩まされていた。そこで、長女と秀豪様を結婚させ、武勇に優れる男の子が生まれることに期待した――という話だったわ」


 湖家は豪農といっても、相手は禁軍最高の将軍。いかに秀豪が豪傑であろうとも縁談を断ることは難しかったであろう。


「それで、秀豪様との恋が叶わないと知った月凛様は、お兄様に毒を盛った……そう言いたいのですね?」

「なによ、文句があるの?」

「いえ、理解はできます」


 裸で絡み合っていたという、湖秀豪と湖月凛。玉芳が嘘を言っていないのであれば、本当にそうしたことが行われていたのだろう。


 ……しかし、だからといって家族に毒を盛るものなのか?


 孫式は捨てられた身であり、今もほとんど長距離を往復するだけの生活を送っているから、家族というものがさっぱりわからない。


「禁断の恋に兄殺しよ。これだけ非道なことをしておいて、今はのうのうと金持ちの正夫人に収まっている。もうお兄様のことは割り切ったのかしらね? 今夜だって旦那さまと情熱的にやっているんでしょう。まったくうらやましいことだわ!」


 玉芳は叫ぶような声を上げた。孫式はいちいちビクビクしてしまう。


「なぜ、それを今まで打ち明けなかったのです? そうすれば月凛様にもっと早く復讐できたのでは?」

「できないわ。だって月凛の罪をぶちまけるということは、秀豪様の恥を天下に伝えることになるんだもの。月凛は憎い。でも、秀豪様がそんな方だったと世間に思われるのは嫌なのよ……」


 よほど秀豪に深い愛を抱いていたようだ。


「このお屋敷の中であればその心配はございません。月凛様を正夫人から引っ張り下ろすきっかけとして、わたしがこっそり利用させていただきます」

「やるの? あの女はしたたかよ。宴会のことだって、あたし思ったのよ」

「どのような」

「月凛は蜂を教育してるんじゃないかしら? 楽器が鳴ったら毒を垂らすように。そうすれば自分の席にいながら、あの……誰だっけ、花悠さん? の杯に毒を入れられる。あたしに疑いを向けさせて、罪人に仕立てようとしたんだ!」


 ……何を言い出すんだ。


 孫式は唖然とする。確かに水鶴もインコを飼い慣らして口笛に呼応するように育てているが、虫に同じことができるのか。狙って他人の杯に毒を落とすなど……。


「蜂がそう都合よく人の座っている真上に止まってくれるとは思えません。あれは偶然だったのですよ」


 熱く語った推理を否定されて、玉芳は不満そうだった。


「まあいいわ。あなたが月凛を蹴落としてくれるならぜひ成功させてもらいたいわね。あたしは金塊をいただいて帰るし、お互いにとっていいことよ」


 玉芳はしゃべり終えたあと、あくびをした。いよいよ上半身が崩れそうだ。


「玉芳様、かなり酔っておられますね。このままお帰りになるのは危ないかと」

「気にしないでいいわぁ。あたしはねえ、このくらいじゃちっとも……」


 その先はもはや言葉になっていない。東江楼の客人は向かいにある灯藍という宿に泊めることになっているが、これではとても歩いていけそうにない。


「玉芳様、今宵は東江楼でお休みください。今、花悠さんのお部屋が空っぽですからお借りするとよいでしょう」

「そうねえ……じゃ、連れてって」

「承知いたしました。孫式、手伝って」

「はいっ」


 孫式と水鶴は、自力で歩けなくなった玉芳の肩を左右から支えて歩く。

 江若が東江楼に客を泊めないのは、夜中にうろつき回られるのを嫌っているからだと聞いた。不測の事態とはいえ、その指示を破ることになってしまう。


 ……でも、これだけ酔っていれば何もできないか。


 孫式は自分を納得させる。

 花悠の部屋は水鶴の部屋の向かいにあるが、回廊を挟んでいるため回り込んでいく必要があった。


「雨が降ってきたわね。これで暑さがやわらぐといいんだけど」


 外はいつしか雨であった。闇の中に屋根を打つ雨の音が染み込んでいく。風も出てきて、水鶴の髪が怪しげになびいた。


 花悠の部屋に入ると、御簾ぎょれんのかかった寝台があった。そこに泥酔してしまった玉芳を横にする。花悠の部屋は、水鶴の部屋より棚が多い。水鶴よりも多くの薬を扱う関係で、しまっておく場所がたくさん必要になるのだろう。


「寝てしまったわね。わたしももう寝るわ。孫式、雪羅から傘を借りて行きなさい」

「よろしいのですか?」

「雨ざらしになって帰れなんて言うつもりはないわ」

「ありがとうございます」


 回廊から正門へ続く分岐点で、孫式は水鶴と別れた。まだ起きていた雪羅から大きな傘を借りて、孫式は自分が使っている安宿へ向かう。

 だいぶ風が強くなってきた。傘を差していても、足首のあたりが冷たい。

 深夜の街を歩いている者はいなかった。雨が降ってきたとなればなおさら誰も出歩かない。暴漢の心配をしなくてよいのは、孫式にとってありがたいことであった。

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