その4

「さてさて玉芳殿、あなたはどこの生まれだったかな?」


 江若の質問は客人にも及んだ。


「月凛さんの知り合いですもの。東河原とうかげん成県せいけんに決まっているじゃありませんか」


 玉芳は、いやま暁国でも有数の豪商が相手だというのにまったく態度を変えない。


「おお、そうだったな。お主らは幼なじみではないのか?」

「まあそうとも言いますね。月凛さんの家は、あたしの家から通りを挟んで斜め向かいにありました」

「あまり交流はなかったように思います」


 月凛がさりげなく付け加える。


「あなたから見ればそうでしょうとも。ですが、あたしはあなたのお兄様方とはよく話していたのよ。お二人とも優しくしてくださったわ」

「そうですか。わたくしは本ばかり読んでいる人間でしたので」

「あたしの家は小さな宿屋でしたから、目に入らなかったのかしら。その点、月凛さんの家は大きな農家で、成県でも広く名の知られた名家でしたわね」

「うむ、当主はなかなか気立てのよい男だったが、俺が月凛をもらいたいと言った時にはさすがにためらいを見せておったな。わはは」


 月凛の過去を暴いているかのようで、孫式はやはり落ち着かない。


湖家こけは長兄の秀豪様も、次兄の劉双りゅうそう様も禁軍の将ですからねえ。家を発展させるためにも男性の方から婿に入ってほしかったでしょうねえ」


 玉芳が嫌みったらしく言うが、月凛はうっすら目を開けて口元に微笑を浮かべ続けている。


「はっはっは、いかに将軍を輩出しようとも、俺ほど成功した人間はそうそうおらん。まあ、俺に見つかって運が悪かったのかもしれんな。な!」

「そのようなこと、思ったこともありませんよ。わたくしは江若様の妻になれて幸せでございます」


 腰に腕を回され、酒くさい息をかけられても月凛は堂々としていた。ずっと崩れない微笑が、孫式には不気味にさえ思える。彼女は宴席でああして江若にちょっかいをかけられても平然としている。同じことをされれば表情を硬くする女性の方が多いはずである。月凛の柔らかさは一切壊れる気配がないのだ。


「で、玉芳殿はいま何をしているのだね」

「あたしの家族は成県を離れて今は都におります。でもですねえ、商売が上手くいかないんですの。商売敵も多くて、田舎から出てきたような者はあっさり蹴落とされてしまいますのね」

「やっぱり」


 水鶴が小さな声で言った。


「秀豪様があんなことにならなければ、今のあたしはもっと違っていたかもしれませんねえ」

「なるほど、話はわかった。が、今の月凛は俺の大切な妻なのだ。金はいくらでも持たせてやるからあまり面倒をかけんでくれ」


 玉芳は戸惑ったように江若を見る。


「先ほどの言葉は冗談ではなかったんですの? 本当に恵んでくださると?」

「おお、いいぞ。金塊をくれてやってもいい。だがこれ以上、月凛に迷惑をかけないでもらおう。昔の話など俺はどうでもいいのだ」

「金塊……では、それで手を打ちましょう」


 玉芳はニヤリと笑い、話を打ち切った。


 ……結局、金目当てで昔の弱みにつけこもうとしていたんだな。ずるい人だ!


 孫式は東江楼に滞在している最中、月凛に世話を焼いてもらったことが何度かあった。それだけにどうしても玉芳は敵という印象になる。


 大金が手に入るとわかったせいか、玉芳はずっとにやけた顔をしている。孫式は見つからないようにそっと睨んだ。


 その隣で、張花悠が杯に手を伸ばした。酒を飲み干し、机に杯を戻す。


「う……」


 ――直後、花悠がいきなり喉を押さえた。


「花悠、どうした」

「あっ、これ、は……ど、く……?」


 花悠はあえぎながら横向きに倒れ込んだ。


「どうした!? 何か入っていたのか!」


 江若と月凛がほぼ同時に立ち上がった。水鶴も台を回り込んで花悠のところへ移動する。音を立てて呼吸する花悠は痙攣を起こしていた。

 毒の知識がある水鶴が、花悠の様子を確認する。


「今、自分で「毒」と言いましたね? お酒に毒を盛られたのかもしれません」

「馬鹿な。花悠は毒を盛ることはあっても盛られることなどありえん」


 張花悠は薬屋の生まれ。江若の暗闘に備えて薬になる材料を山ほど持ち込んでいる彼女が毒に倒れた。


 月凛が水鶴の隣にしゃがみ、花悠の首に触れた。


「とにかく吐き出させて、お医者様に見ていただかないと。――雪羅!」

「はい!」

丸平がんぺい先生のところへ行ってきてくれる?」

「ただちに!」


 月凛のすばやい指示で、雪羅が広間を飛び出していった。


「……玉芳さん、まさか……」


 月凛は客人をじっと見つめた。そこで初めて、玉芳は疑惑の目を向けられていることに気づいたようだった。


「じょ、冗談じゃないわ! なんであたしが! この人とはなんの関わりもないのよ!」

「ですが、隣り合っていたのはあなたと青雅せいがさんだけです」


 第三夫人の紹青雅しょうせいががビクッとする。水鶴が水色の襦裙なら、青雅は名前通り深い青色の襦裙を身に纏っている。


「私だって何もしていないけど? だいたい、毒が得意な花悠さんに毒を盛るなんて、恐ろしくてできるわけないでしょう?」


 つり目をぎらつかせて、青雅は月凛に反論する。武人の家に生まれた青雅は、兄たちに似て勝ち気な性格を曲げられることなく今に至る。


「喧嘩は後にしろ! それで花悠はどうなんだ。助かるのか」


 言い合いのあいだも水鶴が花悠を見続けていた。ここでもかつての知識が活きる。


「おそらくですが、死に至るような毒ではないと思われます。本当に深刻であれば、もっと体の表面に影響が出てくるはずです」

「動かしてもいいのか」

「はい、医療房に寝かせるべきかと」

「よし、誰も花悠に触れるなよ」


 江若は自分で第五夫人を担ぎ上げ、広間を出ていった。棒立ちになっていた孫式も、ようやく立ち直って追いかける。全員でぞろぞろと江若の後をついていく形になった。


 広間の南側には医療房がある。その扉を開けると、床に打ち込まれた、箱のような寝台がどっしりと構えている。江若はそこに花悠を寝かせた。


 仰向けにされた花悠はまだあえぐように呼吸している。明かりが灯ると、汗がひどいこともわかった。


「花悠、返事はできるか」

「花悠さん、わたくしたちのことが見えますか」


 江若と月凛がそれぞれに声をかける。花悠はなんとかうなずいて見せた。


「あたしじゃないわよ」


 玉芳は医療房の戸口ではっきりと言った。


「あたしは月凛さんに用事があったのであって、花悠さんと話すことなんてなかった。今だって一言も交わしてないのに、毒なんて入れるわけないでしょう。そもそも、そんな危険なものは持ち歩いていないわ。嘘だと思うならあたしの服を調べてみなさい!」


 大声で一気にしゃべった玉芳もまた、呼吸を荒くしている。


「……水鶴、そういうのはお前が一番得意だろう。調べてみろ」

「承知いたしました。玉芳様、こちらへ来ていただけますか?」


 玉芳は水鶴に連れられて廊下の陰に移動した。孫式は見ないようにする。今、この場にいる男は彼と江若だけ。他はみんな女だ。どうしたって居心地は悪い。


 黙って待っていると、二人が戻ってきた。


「旦那さま、玉芳様は何も隠しておりませんでした。薬なども一切持っておりません」

「そうか、だったらいい。じゃあ毒はどこから入ったんだ。――水鶴、お前は毒の知識も豊富だろう。先生が来るまで見てくれないか」


 水鶴は医療房へ入り、花悠の喉の周りに触れる。


紋蜂もんばちの毒、ではないかと思うのですが」


 紋蜂は暁国各地で被害をもたらしている蜂の一種だ。木造家屋の木を食い破って室内に巣をかけるので庶民は手を焼いている。


「紋蜂は興奮すると人から離れていても毒を出します。琵琶の音に驚いた紋蜂が、天井のあたりから毒を垂らしたということも、ありえない話ではありません」

「それが偶然、花悠の酒に落ちたというのか」

「偶然とはいえ、他に考えられるでしょうか。誰も花悠さんの杯には近づいていないのですから」


 みんな考え込んだ。水鶴の推理は突拍子もないものに思えた。しかし孫式はずっと、対面の席を見ていたのだ。花悠の右にいた紹青雅、左にいた玉芳ともに、杯に手を伸ばすようなことはしなかった。


 ……信じがたいけど、やはりそれしか考えられない。


「まあ、犯人がいないのであれば俺としても気は楽だ。花悠が手元の杯をいじられたことに気づかないなどありえん。天井から落ちてきたなら見過ごすこともあるだろう」


 全員で成り行きを見守っていると、雪羅が東江楼の専属医師である済丸平せいがんぺいを連れて帰ってきた。白髪を編んで背中に垂らした老医師は、ひいひい言いながら医療房に入っていく。


「いやはや、夜になっても暑くてかなわん。ちょっと走っただけでもうこんなに汗をかいてしまった」

「先生、早く診てやってくれ。俺の大事な妻なんだ」

「わかっとるわい。そう急くな」


 丸平はしわだらけの指で花悠の口をひらき、喉に触れた。


「服を開けるぞ。仕方ないな」

「……ああ」


 丸平は花悠の上衣を開けた。傷一つない上半身があらわになる。丸平は腹に触れ、軽く押す。続けて、花悠の目を開けて眼球を確かめる。


「虫の毒による症状じゃな」

「おお、やはりそうか。この水鶴が、紋蜂の毒ではないかと言っていたのだ」

「紋蜂! うむ、東江楼にも巣がかかっているのは見たことがある。だがこの症状、思ったよりも弱い。刺されたならこんなものでは済まんはずじゃ。もっと全身が腫れる」

「だとしたら、弱いのは酒で薄まったせいかもしれんな」


 江若は、水鶴の語った話を丸平に聞かせる。老医師は何度もうなずいた。


「酒に落ちたなら避けようがないわな。命に別状はない。運が悪かったと思って静養させることじゃ。薬は出してやる」

「ありがたい」


 どうやら一件落着の様子である。月凛も安心したのか、深く息を吐き出した。


「ああ、よかったぁ。せっかく仲良くやれてるんだもん、一人でも欠けたら大変でしたよ」


 明るい調子で言うのは、第四夫人の陽景嵐ようけいらんだ。六人の夫人の中で一番背が低い。お調子者として知られる彼女には、いま着ている橙色の襦裙がよく似合っている。


「蜂ごときに夜宴を邪魔されるなんて。まったく、なんて夜なの」

「本当ね。ただでさえ蒸し暑くて疲れるのに……」


 紹青雅と香白扇もそれぞれに文句を言う。


「よし、みな部屋に戻っていいぞ。あとは先生が様子を見てくれる。俺たちにできることはもうない」

「今宵はどうされます?」


 月凛が訊くと、江若はその肩に大きな手を乗せた。


「こういう夜は、やはりお前しかいない」

「はい。ではのちほどお部屋に参ります」


 まず月凛が去っていき、続いて江若、そして夫人たちと、一人ずつ自分の部屋に引き返していった。


 残ったのは水鶴と孫式、玉芳、小間使いの雪羅、厨房を預かっている関頼かんらいという中年の男の五人であった。


「おい雪羅、俺たちは片づけをやらなきゃならねえぞ」

「もちろんです、すぐ食器を運びます」


 雪羅と関頼が広間へ歩いていった。

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