8. 階下の人々

 子爵の元を辞去する前、アメリアとアルバート卿は、ミス・ジョーンズが子爵を探していた旨を伝えた。

 アメリアはそうしなければならない気がして、彼女が不安そうであった旨も付け足したが、子爵は少し疲れたからお茶を飲んでから行くとだけ答えた。


 「妙だな。いつものジョンなら真っ先に婚約者の元に行きそうだが……兄は責任感の強い男ですから」


 1階へと続く階段を先に降りながらアルバート卿は呟いた。

 アメリアは子爵は何かから逃げようとしているような気がしていた。

 それは、きっと子爵が遠くを見るようにしているミス・ジョーンズを見つめながら浮かべていたあの「恐れ」の表情と無関係ではないはずだ。


 「もう午後4時半ですね。次はどうします?」


 1階に着くとアルバート卿がポケットの懐中時計を見てアメリアに問う。

 アルバート卿の原稿の締め切りまであと2時間半しかない。

 アメリアはとにかく捜査を進めなければならないと思い、現状の整理を試みる。


 「いくつか具体的な謎がでてきましたわね。<王女の涙>はおそらくケーキ倒壊の騒ぎの中で持ち去られたのでしょうが、最大の謎はそれを実行したのはいったい誰なのかということ」

 「それから、ステージ上にあったという水たまりもなんだか気になります」


 アルバート卿が続けて述べた意見にアメリアも頷いた。


 「次は使用人たち……執事とフットマンに話を聞きましょうか」


 アメリアがそう告げるとアルバート卿は少し思案してから口を開いた。


 「おっしゃる通りだとは思いますが、本人たちより前に話を聞いた方が良い人がいます」


 今、執事とフットマンは、大ホールで客人の給仕をしているか、応接間で主賓の公爵夫妻の世話をしているだろう。

 しかし、アルバート卿が進んだのはどちらでもなかった。

 彼は迷わず隅にあった扉を開けて使用人用の階段へと向かう。


 アメリアは「あら?」と思ったが、彼が自信を持って進んでいくので、あえて疑問を差しはさむこともなく彼に続いて行った。


 ***


 地下の使用人区画に降りると、そこではパーティーの裏方を務めている家政婦長やハウスメイドといった女性使用人たちが働いていた。

 パーティーは中断されているとはいえ、警部の指示で客人を留めおいているため、奥にあるキッチンからは断続的に紅茶やちょっとした菓子などが提供されて来ているようだ。

 彼女たちはそれらをキッチンから上階へと続く階段近くのテーブルに運び、下級執事やフットマンといった男性使用人がそれらを持って上に上がっていくという仕組みだ。

 アルバート卿は使用人の邪魔にならないよう目立った動きを避けながらも、たまたま近くでハウスメイドに何かを指示していた家政婦長に向かって呼びかけた。


 「モース、ちょっといいかな?」


 モースと呼ばれた家政婦長は、少し驚いた顔をして振り返った。彼女は黒っぽい髪に白髪が混じった40代半ばくらいの背の高い女性で、家政婦長らしく黒い服を着ている。

 彼女は「はい、ただいま」とにこやかに言ってすぐにアルバート卿の近くにやってきた。

 ただの家政婦長にしては主家の子息と距離が近い気がするが、先ほど子爵とアルバート卿の会話で彼女は元乳母だったと言及されていたので、そのせいで侯爵家の兄妹とは親しいのかもしれない。


 「何のご用でしょう?ご子息様……とお嬢様」


 ミセス・モースはアルバート卿の隣にいるアメリアに気づいて遠慮がちに付け足した。


 「レディ・メラヴェル、こちらは当家の家政婦長のミセス・モース。元は我々兄妹の乳母で乳母時代から数えると20年当家に仕えてくれています」

 「お忙しいところありがとう」


 礼儀正しくカーテシーでお辞儀をするミセス・モースにアメリアはできるだけ丁重に挨拶した。

 アメリアはアルバート卿がここに来た理由を理解した。

 確かにどの家でも家政婦長以上に使用人一人ひとりのことを知っている人はいない。

 彼女から得られる情報が鍵になりそうだ。


 「モース、こちらはレディ・メラヴェル。私と彼女は上で起きた盗難事件について少し確認していてね。時間をもらえるかな?」

 「はい、何なりと。私の部屋へどうぞ」


 ミセス・モースはまるで予期していたかのように滑らかに二人を家政婦長の部屋に案内した。

 全員が狭い部屋に収まるとミセス・モースは扉を閉めてから言った。


 「あの、お聞きしてもよろしければ……<王女の涙>が<静かなる猫>に盗まれたというのは本当ですか?階下の我々にもミスター・リーから報せがありましたが、信じられなくて……」

 「残念ながら盗難は事実だ。だが、<静かなる猫>の仕業かどうかについては、私は少し疑っている」


 ミセス・モースは冷静に聞いているようだが、その右手は腰に着けている鍵束に触れている。


 「私も使用人を疑いたくはないが、念のため何人かの使用人について確認したくてね。あなたに話を聞ければ助かるよ」

 「ええ、もちろん。私も仲間を疑いたくはありませんが、家宝が盗まれたとあってはご子息様が確認なされたいお気持ちもよくわかりますよ」


 彼女は深く頷いて温かみのある笑顔を浮かべた。

 アルバート卿も珍しく何の含みもない笑顔で応じる。


 「それで、私たちが聞きたいのは、執事のリーとフットマンのケンのことなんだ。彼らの経歴とか最近の様子について教えてもらえるかな?」


 侯爵の命で<王女の涙>が展示されていたショーケースに張り付いていた執事のミスター・リーはケーキ倒壊の騒ぎの中で<王女の涙>に触れることができた可能性がある。

 また、騒ぎの直後に大量のシャンパングラスを運んだままショーケースの目の前で転んで、その場をガラス片の海にしてしまったケンは状況からして非常に怪しい。

 ミセス・モースからの情報で何かわかれば事件の全容が見えてくるかもしれない。


 「そうですね……まず、フットマンのケンですが、ご存じの通り、あの子は去年入ったばかりでまだ19歳です」


 ミセス・モースはいささか心配そうな表情を浮かべる。


 「前職はバラット家のフットマンでしっかりした紹介状がありました。今のところ、少し幼くて迂闊なところはありますがよく働いてくれてはいます。ただ……」


 彼女は少し言いよどんでため息をついた。


 「ただ、賭け事が好きなようで、いつもミスター・リーと私で注意はしているのですが、なかなか……」

 「なるほど、賭け事か……」


 賭け事好きだったとすると負けが込んで借金があったということは十分に考えられる。

 それが<王女の涙>を盗む動機にはなりそうだ。


 「でも、あの子はまだ19歳ですから、侯爵様の宝石を盗むだなんて大それたことはできやしませんよ」

 「ああ、そうだな」


 アルバート卿は元乳母の家政婦長を安心させるように優しく頷いた。


 「では、執事のリーはどうかな?」

 「ミスター・リーは私がまだただの乳母だったときに下級執事として当家にいらっしゃったので、前職のことは詳しくはわからないのです。ただ、家事使用人ではなかったとは聞いています。入れ違いにやめていった下級執事が彼の叔父さんだったそうで、その前執事からの紹介で雇われたようです」

「その頃の下級執事……カルウィックのことかな?彼とリーは親戚だったのか」

「ええ、そのミスター・カルウィックです。今はチャールズ・ストリートのファーンリー伯爵家の執事なので、必要ならすぐに連絡をとることもできます。親戚同士の入れ替わりとはいえ、未経験なのにフットマンではなく、下級執事から始めたのは今にして思えば少し違和感がある気もいたします。ミスター・リーは背が高いですし、10年前は見た目も若かったのでフットマンにもなれたはずです。当時から当家の下級執事は結構なお給金をいただいていますから、お金が必要だったのかもしれませんが……」


 アルバート卿は何かを思い出そうとするかのようにこめかみに手を当てたが、すぐに首を振って質問に戻った。


 「しかし、結局は執事に昇進しているのだから適性があったということだね。今の彼の勤務態度には問題ないんだろうね?」

 「ええ、責任感の強い優秀な執事だと思いますよ。若い男性たちをよく指導してまとめてらっしゃいます。昨日も不慣れなケンに付きっ切りでケーキ設置のリハーサルをしていました。まあ、ご家族がお飲みになったワインの空き瓶やコルクを目ざとく見つけて売ってお金を稼いでいることは役得の範囲内でしょうし、ここ最近はその役得も下級執事たちに譲っているようです」


 ミセス・モースの目から見た彼らは、少々欠点はあるものの普通の使用人らしい。

 今のところ気になるのはケンの賭け事の趣味くらいかしらとアメリアは考えた。


 「あとは……そうだな。あの<王女の涙>だが、母が存命中は銀行には預けてなかったんじゃないかな?母はあれを頻繁に身に着けていたが、毎回銀行に取りに行っていたような記憶はなくてね」

 「ええ、おっしゃる通りですよ。奥様がご存命の間は当家の金庫に保管されていました。奥様がお亡くなりになってからアッシュコム銀行に預けると侯爵様と当時はもう執事だったミスター・リーがお決めになったのです」


 アルバート卿は納得して深く頷き、少し考え込む。

 アメリアも他にミセス・モースに聞いておくべきことがないかを再度考えたが、他には特にない気がした。


 「聞くべきことは聞いた気がするが、その他に何か気になったことは?」


 アルバート卿の問いにミセス・モースは頬に手を当てて考え込み、不意にハッとした表情をする。

 しかし、再び考え込んでしまう。


 「事件に関係ないことでも構わないよ」


 アルバート卿が促すと、ミセス・モースは「本当に関係ないかもしれませんよ?」と前置きしてから切り出した。


 「シェフのムッシュー・プレヴォが言っていたのですが、パーティーのために注文した氷の勘定が氷業者の請求と合わないのだそうです」

 「あら、侯爵家では人工氷をお使いにならないのですね」


 アメリアはつい疑問を口に出してしまった。

 最近のロンドンの貴族の屋敷では、徐々に人工氷の製造機の導入が進んできていると新聞で読んだことがあったので意外だったのだ。


 「父が人工氷に懐疑的なのです。実際は天然氷の方が有害だという話もあるのに。今まさに兄妹で人工氷製造機の導入を説得中ですよ」


 アルバート卿は苦笑しながら説明し、更にミセス・モースに確認する。


 「勘定が合わないということは、注文した以上に請求されているということだね?」

 「ええ、そのようです。ムッシューはもう一度確認してみるとは言っていましたが……」


 一同はしばし沈黙して考え込む。

 これは一連の事件と無関係にも思えるが、何か引っかかるような気もする。

 しかし、いずれにしても差し当たり聞きたいことは聞いてしまった。


 「ありがとう、モース」

 

 アルバート卿が礼を言うと、ミセス・モースは再度丁寧なカーテシーで応えた。

 家政婦長の彼女からは本人に聞くだけでは得られなかった情報を得ることができた。

 次はこれらの情報を前提に、本人たちからどこまで聞き出せるかだ。


***

 

 アメリアとアルバート卿は再び使用人用の階段を上って、1階に戻ってきた。

 玄関ホールに出ようとしたときに一人のフットマンが建物の左翼側との接続部分で立ち止まっていた。

 彼はホールの反対側の何かを見て立ち止まっているようだ。


 「あのフットマンがケンです」


 アルバート卿がアメリアに囁いた。


 「しかし、彼は一体何を――?」


 2人が彼の視線を追うと、その先には侯爵家の次男ヘンリー卿の姿があった。


 「ヘンリー?どこに行ったのかと思えばこんなところに」


 しかし、ヘンリー卿の様子はどうもおかしい。

 何かこそこそとしている。どうやら警官が立ち塞がっている建物の右翼側に行きたいようだ。

 そして、当の警官はというと、職務をきちんと果たしているとは言い難かった。

 彼の視線はヘンリー卿がいる側とは逆の柱の陰に注がれている。その柱の陰ではどうやら若い男女が『戯れ』か――もしくは、もう少しギリギリの距離で接しているようだ。

 若い警官は彼らが気になって仕方がないらしい。


 「やれやれ、彼らは柱の陰で本当に『戯れ』をしているようだ」


 アルバート卿はそう呟く。

 彼が「本当に」を強調していたので、先ほど彼自身がこの玄関ホールの柱の陰でアメリアと会話したときには、やはり彼の方でも「戯れ」を装っていたのだとわかり、彼女はなぜか頬が熱くなる気がした。


 そうこうしている内に、若い男女の観察に夢中になっている警官の視線を掻い潜ったヘンリー卿は、首尾よく右翼側に消えていった。


 「全くヘンリーは何をしているんだ……まあ、いい。ケンに話を聞きましょう」


 2人はまだ左翼との接続部周辺にいたケンに話しかけることにした。


 ***


 「やあ、ケン、ちょっとこっちへ来てくれないか?」


 アルバート卿は気軽な口調でケンに声を掛けた。

 まだヘンリー卿の背中を見つめていたケンは、ハッとして、アメリアとアルバート卿がいる使用人用の階段へと続く扉の前にやってきて、礼儀正しくお辞儀する。


 「何かご用でしょうか?ご子息様とお嬢様」


 ケンはミセス・モースが言った通りまだ幼さの残る若者だが、きちんと撫でつけられた髪、生来の高い身長、そして、青い短めのズボンのお仕着せのお蔭で外見はどこからどう見ても立派なお屋敷のフットマンだ。


 「今回の事件のことだが……」

 「グラスのことは申し訳ございません。どうかクビと弁償だけはご容赦いただけるよう侯爵様に執り成していただけませんか?」


 ケンは白手袋をした両手を体の前で組み合わせてもぞもぞと動かしている。


 「私はただ乾杯用のシャンパンと交換した空きグラスを運ぼうとしていただけで……」

 「父はそんなことで若者に罰を与えたりはしないさ。それよりリーの方が厳しそうだが」


 アルバート卿は明らかに動揺しているケンをなだめる。

 確かに侯爵は執事のミスター・リーを信用しているので、侯爵が寛大にケンを許したとしてもミスター・リーが反対すれば、ミスター・リーの判断を尊重する可能性はありそうだ。


 「ミスター・リーは……その……大丈夫だと思います……」


 ケンはもごもごと言った。

 アルバート卿はその反応に眉を上げたが、ひとまず、本題を切り出す。


 「君はあの騒ぎの最中、ショーケースの前にいたね――転んではいたが。そのときに何か気づいたことはなかったか?ショーケースの周囲の警備が手薄になっていたようだが?」


 「ええと」とケンは緊張した面持ちで頼りなさ気な口調で話し始める。


 「確かにケーキが倒れる騒ぎがあったとき、ショーケースの前にいた2人の警官はすぐに倒れたケーキのところに向かっていきました。なので、私が通りかかったときにはショーケースの周りには誰もいませんでした」

 「リーは?彼もショーケースに張り付いていただろう?」


 ケンは記憶を取り戻そうとしているのか、俯いて考え込んでいる。


 「ええと、よく覚えていません。私が転んだときには、既にミスター・リーもいなかったと思いますが」


 アメリアとアルバート卿は顔を見合わせる。

 警官のことはそれなりにしっかり見ていたようなのに、自分の上司である執事のことは、こうも曖昧だなんて一体どう解釈したら良いのだろう。


 アルバート卿はひとまず質問を進めた。


 「あとは……あの3段のケーキがどうして倒れて来たのかわかっているのか?」

 「ええと、それもよくわかりません」

 「あれは君が設置することになっていたのかな?昨日リハーサルをしていたと聞いている」

 「はい、シェフのムッシュー・プレヴォが作ったケーキを下級執事の2名と私が手分けして設置しました」

 「運搬と組み立ての分担は?」

 「下っ端の私が一番重い台座と一番下のケーキを運んで、指定のテーブルに置きました。上の2段は実は紙で作ったオブジェを砂糖で装飾していただけだったのですが、それを支える支柱と台を含めて下級執事2名の担当でした。どちらがどちらの段を担当していたかは……よく覚えていなくてすみません」

 「もう十分だ。ありがとう」


 ケンの記憶が不確かになってきたところでアルバート卿が会話を打ち切ったので、彼は緊張していた表情を少し緩めた。


 「ところで、モースが君の賭け事について心配していたが、あくまでちょっとした遊びなんだろうね?」


 アルバート卿は絶妙に何気ない風を装っている。

 雇い主に悪癖を指摘されているにもかかわらず、意外にもケンの表情は明るくなった。


 「ええ。少し負けたこともありましたが、自分の責任でちゃんと取り返しましたよ、ご子息様」

 

 そう言ってケンは「公爵ご夫妻にお代わりの紅茶をお持ちしなければなりませんので」と言って一礼すると、使用人用の階段を小走りに下りて行った。

 残された2人はケンの不可思議な態度の解釈について、それぞれの頭の中でしばし考え込んでいた。

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