7. それぞれの気づき
「アルバート。どこに行ってたのよ」
アメリアとアルバート卿がレディ・グレイスとミス・ジョーンズに近づくと、まず兄に気がついたレディ・グレイスが彼を咎めるように声をかけた。
ミス・ジョーンズは彼女の後ろで遠慮がちに2人に会釈した。
「家族でもないレディ・エルデンハーストが応接間でダーヴェント公爵ご夫妻の世話をしてくださっているのよ」
「それは君に任せたいところだな。ジョンが結婚しない内は、我が家で一番地位の高いレディなんだから、今は君が実質的にこの家の女主人だろう?」
アルバート卿は真剣な口調ではあるが、どこかからかい混じりに言い返した。
「あら、お父様はそんな風に考えていらっしゃらないようよ」
しかし、レディ・グレイスは少し年の離れた兄相手でも全く臆することなく自分の意見を主張している。
「それに、私には他にやらなければならないことがあるのよ。事件のことでヘイスティングス警部と話したいの。でも、あの方ときたら、さっきはお父様と喧嘩していらしたし、その前は部下を怒鳴りつけていらしたし、とてもレディが話しかけられる状態ではなくて……」
そこまで話したところで、レディ・グレイスの視線が兄の隣にいたアメリアの顔で止まる。
彼女はようやくアメリアがそこにいることに気がついたらしい。
「あら、ごめんなさい。レディ・メラヴェル」
「いえ、とんでもない。レディ・グレイス」
アメリアは礼儀正しい笑みを浮かべる。
実際、そんなことよりも気になることがあった。
「失礼ですが、あなたは事件について気づいたことがあるのですか?」
アメリアの率直な問いにレディ・グレイスはその大きな瞳を一度瞬いた。
そして、その青みがかったグレーの瞳をいたずらっぽく輝かせる。
「あなた、この事件に興味がおありなのね」
「ええ、まあ……」
アメリアはあいまいに返事をするが、まだ18歳の侯爵令嬢は少なくとも彼女の父の侯爵のように若いレディが窃盗事件に興味を持つことが不適切だとは思っていないようだった。
「じゃあ、少しだけ教えてあげるわ」
そう言うとレディ・グレイスは危険がないかを確認するように周りを見回し、アメリアとアルバート卿に一歩近づいてから話し始めた。
「私見たのよ。<王女の涙>が盗まれたとわかったときに、"彼"が嬉しそうな顔をしているのを」
「"嬉しそうな顔"?」
アメリアは思わず聞き返す。
彼女は<王女の涙>が盗まれたとわかったときに見晴らしの良いステージの上にいたので、そこから驚愕したり困惑したりしている客人たちの表情がよく見えた。
レディ・グレイスもちょうどステージに上がるか上がらないかのところだったので同様だろう。
その中で、一人、嬉しそうな顔をしている人がいたとしたら目立っただろうし、怪しいのは間違いない。
「ええ、あれは間違いなく"嬉しそうな顔"。絶対に驚きでも戸惑いでもなかったわ」
レディ・グレイスは揺るがない灰色の瞳で断言する。
「しかし、"彼"とは誰なんだ?」
あからさまに疑わし気な口調でアルバート卿が口を挟んだ。
「それはいくら家族でも犯人が捕まるまでは言えないわ。犯人が察して逃げてしまったら元も子もないもの」
レディ・グレイスは口元だけで笑う。
しかし、すぐに真剣な口調で2人に向かって――なぜか特にアメリアに向かって――語りかける。
「あの<王女の涙>は当家の家宝であることはもちろん、私たちにとっては母の思い出の指輪ですからね。確実に捕まえたいでしょう?」
アルバート卿は短い溜息をついた。
きっと彼の経験上、これ以上妹から話を聞き出すのは不可能だということなのだろう。
レディ・グレイスはその内にヘイスティングス警部に報告するつもりなのだからいずれ何かわかるだろうと、アメリアもこれ以上は一旦諦めることにした。
アメリアがレディ・グレイスから視線を外したとき、彼女はその後ろにいたミス・ジョーンズがずっと黙ったままであることに気が付いた。
「ミス・ジョーンズ、あなたは事件についてどう思われまして?」
アメリアが優しく声を掛けるとミス・ジョーンズの肩が一瞬動いた。
おそらく、全く別のことを考えていたのだろう。
でも、こんな重大事件が目の前で起きているときに一体何を?
「そうね……驚いたわ……本当に……」
アメリアの疑問をよそに、ミス・ジョーンズはゆっくりと答えた。
彼女のグリーンの瞳はどこか遠くを見ている。
今日既に何度か見た表情だ。
「先ほどのことで何かお気づきになったことがありまして?」
「先ほどのことでは……特にないわね。ケーキが倒れてきた直後だったから、私はジョン……ロスマー子爵が心配で周りはよく見ていませんでしたの」
ミス・ジョーンズは何も考えていないように装って話しているが、実は逆に慎重に言葉を選びながら話しているのではないかと、アメリアは思った。
彼女が隣のアルバート卿に目を遣ると彼もまた何か引っかかるものを感じているようだ。
「あの<王女の涙>は今日正式にあなたに贈られるはずだったが……」
アルバート卿はそれとなくダイヤモンドの話に水を向ける。
「ええ、そうね。そういう意味では残念ではあるわね。ただ――」
そこまで言ってミス・ジョーンズは急に黙り込んでしまった。
またそのグリーンの瞳がどこか遠くを見ている。
何か不安があるのか、怒っているのか、それとも、恐れているのか、まるで判然としない。
「それにしても、ロスマー子爵はいつお戻りかしら?ただ砂糖を落とすだけにしては遅くないかしら?」
ミス・ジョーンズは不意に少し明るい調子でそう言った。
アメリアにはそれがあまりにも意識的に整えられているように聞こえたが、同時にレディ・グレイスと同じで今は何を聞いても答えてくれそうにはないこともわかった。
アメリアは再びアルバート卿を見るが、やはり彼も「全くわからない」というように小さく肩を竦めただけだった。
***
レディたちと別れた後、アメリアとアルバート卿は侯爵家のタウンハウスの2階の廊下を歩いていた。
ミス・ジョーンズがロスマー子爵の様子を気にしていたので、アルバート卿が様子を見てくると言ったのだ。
確かに次はロスマー子爵の話を聞きたいところだったので、まさに渡りに船だった。
「ミス・ジョーンズは元から控えめな方なのですか?私、アメリカの方はもっと率直なのかと思っていました」
廊下を歩きながらアメリアはやや声を落としてアルバート卿に問う。
「そうですね……彼女は今回のパーティーのために2週間前に英国に着いて我が家に滞在してますが、言われてみれば、到着当初はもっと明るくて口数も多かった気がします。初日の朝食に甘いパンケーキをリクエストしてキッチンを混乱に陥れていましたよ」
アルバート卿はいつも通り皮肉っぽく語るが、どこか楽しんでいるようでもあった。
「それから、ジョンとも今よりももう少し打ち解けていたような気がする。……結婚が近づいてご不安なのかもしれないですね」
アメリアは確かにアルバート卿の言うことに一理あると思った。
アメリカから一人で英国の侯爵家に嫁ぐのだからミス・ジョーンズが結婚を控えて不安になっていると解釈するのが道理だ。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
「それを言ったらジョンの方もここ数日なんだかおかしい気がします。まあ、結婚は男の方にとってもプレッシャーということなのかもしれませんが……」
それを聞いてアメリアは、ミス・ジョーンズが遠くを見ていることに気づいたときの子爵の反応を思い出していた。
子爵はミス・ジョーンズの表情を見て、何か恐れを抱いているようだった。ミス・ジョーンズの表情は読めなかったが、子爵のそれは明らかに何かを恐れる表情だった。
それは結婚により夫としての責任を背負うことを恐れるが故の表情だったのだろうか?
「私はミス・ジョーンズのことははっきりとわからないのですが、子爵の方は何か恐れていらっしゃるような気がしました」
「『恐れる』か……」
そう言ってアルバート卿は遠い記憶を探るように顎に手を当てて思案し始めた。
「思い返してみれば、ここ最近のジョンの表情は、子供のころ我が家のカントリーハウスの庭でヘビが出たときの表情に似ていたかもしれない。その頃、私たち兄妹はポメラニアン――キャンディという名前でした――を飼っていて、兄はそのキャンディがヘビに噛まれることを恐れていたのです」
そこまで話すとアルバート卿は「さて」と言って廊下の途中で立ち止まった。
「少しここで待っていてください」
彼はそう言ってアメリアをその場に留め、少し離れたところにあるドア――そこが子爵の自室なのだろう――を3回ノックした。
敢えて軽い調子を装ってノックしているかのように聞こえた。
すぐにドアが開きアルバート卿は誰かと話し始めた。
アメリアからは彼が誰と話しているのかは見えなかったが、おそらく、従者が応対しているかもしれない。
しばらくして彼は戻ってきた。
「もうすぐ砂糖がすべて落ちそうなので、家族の居間で待っているようにとのことです」
「あら、私がご家族の私的な区画にお邪魔してもよろしいのかしら……?」
アメリアは躊躇する。
侯爵家とは今日知り合ったばかりで、エルデンハースト伯爵夫人の紹介でなければ中産階級出身の女男爵という何とも微妙な立場のアメリアが付き合えるようなお家柄でもない。
「構わないでしょう。兄はどうやらあなたが砂糖の襲撃から彼を救おうとしてくれたことに深く感謝しているようです。それに、応接間は公爵ご夫妻がいらっしゃいますし、警察の捜査協力に追われている使用人たちに他の部屋を用意させるのもどうかと思いますので」
そう言われてしまっては、別の部屋を用意してもらう方がかえって悪い気がして、アメリアは素直に従うことにした。
***
ウェクスフォード侯爵家の家族用の居間は、タウンハウスの建物自体と調和するジョージ朝様式の内装が整えられていた。
ストーン色を基調とした壁に囲まれたその部屋には、ほとんどの家具が左右対称に配置されていて、ソファや椅子の布地は大ホールの薄い青よりもやや濃い青色で統一されている。
白い暖炉の枠は繊細に装飾されており、その上部には侯爵家の家族の肖像画がかけられていた。
中央に座っているのが15年ほど若い侯爵と描かれた当時まだ存命だった侯爵夫人、その周囲にまだ少年だった息子たち3人と幼児のレディ・グレイスが配置されている。
アルバート卿はくつろいでソファに置きっぱなしになっていた本をパラパラとめくっていたが、アメリアはこれまで見たこともない立派な家具や調度品に囲まれると、なぜか自分のローズグレーのドレスの膝の上のしわがどうしても気になってつい何度も撫でつけてしまった。
そんな彼女の様子を見て彼が何か言いかけたとき、ロスマー子爵がやっと現れた。
「レディ・メラヴェル、お待たせして申し訳ない」
ロスマー子爵はアメリアの手をとって改めて挨拶をする。
「私の従者は優秀な男なのですが、さすがに髪にこびりついたアイシングの砂糖を落とすのは初めてでして。ミセス・モースに頼むべきだったかな?元乳母の彼女ならこういうことに専門性がありそうだ」
「もう彼女は家政婦長なんだし、第一、子供ならまだしも大の男の髪に付いたアイシングなんてお断りだろう」
子爵は弟の皮肉を笑って受け流すと、アメリアの向かいのソファに座った。
このご家族は――当たり前かもしれないけれど――アルバート卿の皮肉に慣れていらっしゃるとアメリアは思った。
「それにしても、先ほどは砂糖を払ってくださってありがとうございました」
「いえ。お怪我はありませんでしたか、ロスマー卿?」
「ええ、お蔭様で」
子爵は温かい笑みを浮かべて答えてから、おどけたような表情を作ってアルバート卿を見ながら続ける。
「あのとき、砂糖の襲撃に遭った私を助けに来てくださったのは、アッシュコム銀行のミスター・ブルックとレディ・メラヴェルだけでしたよ」
「……皆、あまりのことに唖然としていたんだ。別に誰も兄さんのことを見捨てたわけじゃないさ」
アルバート卿の灰色の目が薄情者の汚名を着せられるのは心外だと言っている。
「そもそも、御年60の父上が無事だったのに、なぜ30歳以上若い兄さんが避けられなかったんだ?」
「あのとき言っただろう?ステージの上になぜか水がこぼれていて、それに足をとられたんだと」
アルバート卿は子爵に懐疑的な視線を向ける。
アメリアは一応事実を告げておこうと口を挟んだ。
「ロスマー卿がおっしゃっていることは本当ですわ。私もステージ上に水があるのを見ましたもの。もっともそのときにはほとんど砂糖に吸収されていましたが」
子爵は「ほら」と言って弟に向かって眉を上げて見せた。
アルバート卿は短い溜息をついた。
「なるほど、確かに水がこぼれていたようだ。しかし、なぜ?」
「確かにおかしいですね。誰もステージ上でシャンパンをこぼしたりはしていませんでしたし……」
この不可解な水についてその場では誰も答えを持ち合わせていなかった。
ロスマー子爵も答えの代わりに少し肩を竦めると、2人に先を促す。
「さて、先ほどの盗難事件について聞きたいんだったね」
アメリアが躊躇っていると、アルバート卿が「あなたから質問した方が良い」という視線を送ってきたので、彼女は遠慮がちに切り出した。
「あのとき――ウェクスフォード卿の挨拶が終わって、乾杯したあたりのことですが――何かお気づきになったことはありましたか?」
子爵は「そうだな」と言って少し思案した後、目を閉じて記憶をたどるようにして話し始めた。
「あのときショーケースを守っていた警官がその場を離れてしまっていたな。あのステージからは大ホール全体が良く見えましたからね。最初は<王女の涙>が3人の男たち――警官2人と当家の執事ミスター・リーですね――によってしっかりと守られていたのを覚えていますよ。しかし、あのケーキの倒壊が起きて、警官たちがいっせいにこちらに駆け寄ってきた。あの中には<王女の涙>に張り付いていたはずの2人もいましたよ。私は転んでいましたが、傍に来た彼らの顔を見てわかりましたよ。議員の仕事柄顔を覚えるのは得意ですからね」
「なるほど、大ホールが封鎖されたすぐ後に、警部が2人の警官に雷を落としているのを見たが、それが彼らだったのかもしれないな。これについては警部が正しい……なぜ持ち場を離れたんだか……」
アルバート卿はため息をつく。
「まあ、窃盗団が現れたと思ったのだろうから、彼らは責められんよ」
子爵は苦笑して鷹揚に首を振った。
「まあ、私が覚えているのはこれくらいかな」
そう呟いて子爵は二三度頷いた。
「では、ロスマー卿は率直に盗難についてどう思いますか?」
「率直にどう思うか……そうだな……」
子爵は顎に手を当てながらアメリアの言葉を繰り返して思案する。
「『悲しい』というべきかな。あれは我々の母が正装するときにはいつも着けていた指輪でしたからね」
子爵は視線を暖炉の上の方へ向ける。
先ほどは顔ばかり見ていて気づかなかったが、そこにかけられている肖像画の中でも侯爵夫人の左手の薬指に<王女の涙>が描かれていた。
「それから、あれは今日の婚約披露をもって、ミス・ジョーンズに贈る予定でした。あれは我が家の女主人の地位の象徴でもあったから、それが不完全なものになってしまったのは、やはり『悲しい』ですね」
沈黙の中に子爵のため息だけが聞こえる。
「ミス・ジョーンズはどう思っているのでしょうか?」
「どうかな?彼女はダイヤモンドがなくなったことそれ自体にはあまりショックを受けていないかもしれないな。彼女の実家が宝石商の大富豪であることはご存じでしょう?彼女のお父上は、当初ミス・ジョーンズと彼女の未来の夫を事業の後継にと考えていたらしく勉強も兼ねてたくさん宝石を与えていたそうなので、彼女は自分のをたくさん持っているはずですから。ただ――」
言葉を切った子爵の様子にアメリアは先ほどのミス・ジョーンズを思い出した。
彼女もまた肝心なところでこんな風に沈黙していた。
「ただ?」
しかし、今度はアルバート卿がタイミングよく先を促した。
「いや、少しほっとしているということはあり得るかもしれないと思っただけだよ。彼女は最初に<王女の涙>を見たときから――盗難予告を受けて父と私とでアッシュコム銀行に行ったときだが――プレッシャーとでも言うのかな……とにかく何か抱え込んでいる節があるような気がしたんだ」
アメリアとアルバート卿は子爵の話の続きを待ったが、彼はそれ以上は語らなかった。
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