第4話 カフェオレとクレープ(中編)

 まだ15才歳の僕だが,過去にはいろいろあって,短い人生ながらも悩みや苦しい出来事はたくさんあった。

 他の人と比べる基準はもってないけれど,自分にとっては人生ハードモードと言って差し支えないと思っていた。

 だけど。

 現在の心情は今まで経験したことがなかった。

 そう。

 僕は,大いに困惑していた。


「・・・笹宮さん?」

「ひゃいっ!」

 僕が声を掛けると隣に並ぶ彼女は肩をすくめてビクッとする。

「・・・何かよくわかんないけど,大丈夫?」

「大丈夫,れすっ!」

 言語中枢も怪しくなってきたようだ。


 木曜日の放課後。

 本来なら家庭科の授業は月曜日の3,4校時であるが,他の教科と共に明日金曜の3,4校時に設定されていた。

 智子先生の話では,調理実習の関係で他のクラスと競合しないためなのだそうだ。

 そんなわけで,僕は明日の調理実習の買い出しに,自宅近くのスーパーマーケットに来ていた。

 笹宮さんと一緒に。


 僕はカゴを持ちながら,クレープの材料を吟味する。

 そしてそれを笹宮さんにカゴに入れてもらうように指示してるのだが・・・。

「あ,そのリンゴ,いいと思う。煮るんなら甘くない方がいいんだ。一個で足りると思うけど,予算に余裕あるしそっちのと一緒に2つ買おう」

「ひゃいっ!」

 僕が声を掛ける度に,笹宮さんの挙動がどんどん怪しくなってくる。

「これじゃ,まるで,夫婦,みたい・・・」

 何やら小声でブツブツ言っているようだが,よく聞き取れない。

 ラブコメの難聴系鈍感主人公にジョブチェンジしたつもりはないのだが,聞き取れないものはしようがない。

「じゃあ,会計済ませてくるから,あっちで待っててくれる?」

「ひゃい!」

 相変わらずキョドっている笹宮さんをレジの向こう側に促し,会計を済ませる。

「これぐらいなら,自前で間に合いそうだな・・・」

 荷物台に買い物カゴを乗せ,トートバッグからマイバッグを取り出す。

「・・・いつも,マイバッグ,持ってるん,ですか?」

「まあ,お菓子作りの材料やコーヒーの材料を買うときに必要だから,一応常備してるよ」

「はあ・・・」

 そんな会話をしながら,買ったものをマイバッグに詰め込み終える。

「じゃあ,行こうか」

「え?」

「?・・・材料を冷蔵庫に入れないと」

「・・・どこに,行きま,するか?」

 わお。

 日本語も怪しくなってきた。

「僕の家だけど・・・?」

「ひぇ,ひぇ,ひへっ?」

 ああ,そうか。

 そうだよね。

「だったら,ここでいいよ。男の一人暮らしの家に入るなんて怖いよね?」

 そうだよなあ。

 彼女も年頃の女の子だ。

 なんか,自分がどんどん爺くさくなってきて,ちょっとやだな。

「こ,怖くなんて,ないでしゅ!」

「そう?」

「な,楢崎君は,そんな,人じゃ,ないれす!」

「あはは」

 思わず笑ってしまう。

「・・・むう」

 そんな僕を見て,彼女は少しむっとする。

 学校では完璧美少女の彼女だけど,こんなに子どもっぽいとは思わなかった。

「とりあえず行こうか。飲み物ぐらい出すよ」

「・・・リクエスト,しても?」

「何がいいの?」

「・・・カフェオレ」

「お安いご用です」

「ふふっ」

 今日初めて,彼女の笑顔を見た気がした。


「お邪魔します・・・」

「散らかってるけど,どうぞ」

「・・・え,全然片付いてますけど?」

「まあ,暮らし始めて2ヶ月くらいしか経ってないからね」

 彼女はキョロキョロと見回しながらリビングに入ってきた。

 僕の家,マンションは1LDKの造りだ。

 いろんなところを内覧して,学校への通いやすさと,ダイニングキッチンの広さで決めた。

「適当に座ってて」

「・・・うん」

 彼女に声を掛けた後,買ってきた材料を冷蔵庫にしまっていく。小麦粉と卵は常温でも保存できるが,クレープにするなら冷やして置いた方がいい。

 冷蔵庫に詰め終えると,キッチンテーブルの端に固定したコーヒーミルに,夕べ焙煎しておいたコーヒー豆を入れる。

 ゆっくりと,豆に熱を加えないように気を付けながら豆を少し粗めに挽く。

 コーヒーとして飲むなら物足りない感じだけど,カフェオレにするならこれくらいがいい。

 僕なりに,試行錯誤してたどり着いた,今の僕のベストレシピだ。

「わあ。豆をひいてるところ,始めて見ました・・・」

 気が付けば,笹宮さんがダイニングキッチンに来て,興味深げにその様子を見ていた。

「そうなんだ?まあ,喫茶店では機械で挽くし,家庭では挽いた豆を使うことの方が多いからね」

「コーヒーミルっていうんですか?本物は初めて見ます・・・」

「最近は専門店でなくても,ちょっとした雑貨屋さんでも売ってるけどね」

「そうなんですね・・・」

「まあ,このミルは僕の宝物でもあるけど」

「宝物?」

「・・・うん。僕の地元に小さな喫茶店があるんだけど」

「うん」

 サイフォンに豆とミネラルウォーターを入れ,アルコールランプに掛ける。

「偶然入ったその店で,初めてカフェオレを飲んだとき,僕の『世界』は一変してね」

「・・・。うん」

 お湯が沸いてサイフォンの管に上がるのを見つつ,小鍋に牛乳を入れてごく弱火で温める。

「それからその店に足繁く通って,マスターやその奥さんからコーヒーの入れ方や,お菓子作りの基礎を教えてもらって」

「・・・うん」

 コーヒーが出来上がるのを見て,アルコールランプの火を消す。

「中学卒業するときに,僕も将来こんな店を持ちたいって言ったらさ」

「うん・・・」

 マグカップに淹れたてのコーヒーと温めた牛乳を同量で注ぐ。

「マスターが卒業祝いにそのコーヒーミルをくれたんだよ」

「・・・そう,でしたか」

 トレイに二つのマグカップを乗せる。

「まだまだ半人前,いや,スタートラインにすら立ってないかもなんだけど」

「・・・そんなことは」

 彼女を伴ってリビングに移動する。

「『夢は抱くだけじゃダメ。そこに近付く努力をしなきゃね』っていう,その時のマスターの言葉が,僕の支えなんだ」

「『夢は抱くだけじゃダメ。そこに近付く努力をしなきゃね』・・・」

「とりあえず,どうぞ。この一杯が今の僕なんだ」

「・・・いただきます」


 彼女は僕の入れたカフェオレをゆっくりと飲み始める。

 テレビもラジオも点けていないので,聞こえてくる音は夕方の外の喧噪と,彼女の喉を鳴らす音だけだ。

「どう?」

「・・・美味しい。前に教室で飲んだときより美味しくなってる気がすます」

「今日は淹れたてだからね」

「それだけじゃない気がします。それに楢崎君のカフェオレは砂糖を入れてなくても甘い気がするし,今日のは一段と甘みを感じます」

「いい牛乳使ってるしね」

「もう!美味しいって言ってるんですから,素直に喜んで下さい!」

「・・・はい。善処します」

 少し気まずくなって,お互いに口をつぐむ。

「・・・あの時,泣いていたのには理由があったんです」

「?」

 そう言えば理由を聞いてなかったな。

「前の夜に両親から嫌なことを言われて」

「・・・うん」

「次の日学校に行って,平然を装うのが辛かっんです」

「・・・そうだったんだ」

「だからみんなが下校した後,一人で教室に残って」

「うん」

「なんでこんなに辛いんだろうって思ったら,涙が止まらなくなって」

「・・・うん」

「でもね。楢崎君のカフェオレを飲んだら,悩みとがどうでもよくなっちゃって」

「はは・・・」

「まだ問題は解決してなんだけど,とてもスッキリした気分なんです」

「それは良かった」

「楢崎君」

 彼女がマグカップをテーブルに置いて姿勢を正す。

 僕も吊られて姿勢を正した。

「ありがとう」

 彼女が深く礼をする。

 その所作は,まるで芸術作品の映画を見ているようで,思わす息を飲む。

「少しはお役に立てた用で何よりだよ」

「少しじゃありません」

「え?」

「楢崎君のお菓子とカフェオレは,私を変えてくれました」

「・・・」

「楢崎君が初めてカフェオレを飲んで『世界』が変わったように,私はあなたのカフェオレで『世界』が変わりました」

「そんな大げさな・・・」

「でも」

「?」

「楢崎君がまだ夢のスタートラインに立ってないって思うなら,これからもっと凄くなるんですね」

「どうだろう・・・」

「だから私も,あなたに負けないようにもっと頑張ります」

 彼女の瞳に決意の灯がともったように見えた。

「・・・お手柔らかにお願いします」

 そう返すのが精一杯だった。

 二人で顔を見合わせて笑い合う。

 しばらく無言でカフェオレの味を楽しんだ。


「大丈夫?送っていかなくていい?」

 少し寛いで,彼女の帰りを見送る。

「大丈夫です。まだそんなに暗くなってないし」

「ならいいんだけど・・・」

「そんなことより,明日の調理実習期待してます」

「・・・ご期待に添えますかどうか」

「楢崎君を班に推薦した私のためにも頑張って下さい!」

「・・・善処します」

「ふふっ。じゃあ,また明日」

「うん。また明日」

 踵を返して帰って行く彼女の後ろ姿を見送る。

 もう泣いていたあの時の彼女の面影はない。

 夕日を浴びてきらめく彼女の髪が,もの凄く綺麗に感じた。

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