君が手紙を書く理由を、僕はまだ知らない。
syu3
第一章:「春の駅で」
あの日、私は初めて「時間」という物が見える気がした。
駅の改札を抜けると、春の光が眩しく降り注いでいた。四月の風は、まるで誰かの吐息のように温かくて、少し甘い。桜の花びらが風に乗って、人々の肩や髪に舞い降りる。私の目の前では、通学中の高校生たちが笑い合いながら歩いていた。セーラー服の袖が、風になびいている。
三年前、私もあの制服を着ていた。いま思えば、それは遠い昔のことのように感じる。
「瑠璃さん、次の授業どうする?」
声をかけられて振り返ると、同じ学科の友人が立っていた。肩にかかった髪を指で絡めながら、彼女は私の返事を待っている。
「ごめん。行くよ」
私は小さく頷いて、駅のホームを後にした。けれど、背中には何かを置き忘れてきたような感覚が残る。まるで誰かに呼ばれているような——。そんな気配に振り向くことはなかった。
「あのさ、もしかして誰か待ってる?」
カフェでアルバイトを終えた後、友人に尋ねられた。私は首を横に振る。
「別に」
「でも、窓の外、よく見てるじゃん」
確かに私は、このカフェに来るたび、窓の外に視線を向けていた。レンガ色の道を行き交う人々を、まるで誰かを探すように。けれど、それは意識的なものではなかった。習慣とでも言うべきか、身体が覚えている動きだった。
「そんなことないよ」
私はカップを持ち上げ、ミルクティーの香りを吸い込んだ。甘くて、懐かしい匂い。
このカフェで働く学生がいる。背中だけ見ると、少し似ている。肩幅の広さや、首の傾け方が。けれど、彼は彼ではない。私はそれを知っている。だから声をかけない。
帰りの電車の中、私は空いた席に座って窓の外を眺めていた。地下鉄の窓に映る自分の顔は、少し疲れていた。光が規則正しく反射して、暗闇と明かりが交互に私の顔を照らす。まるで誰かが点滅するモールス信号を送っているみたいに。
でも、その意味は分からない。
解読するための鍵は、どこかに置き忘れてきた。
実家に帰ると、玄関に一通の封筒が置かれていた。
「瑠璃、お友達から手紙が来てたわよ」
母の声に、私は少し首をかしげた。今どき手紙を書く友人はいない。LINEで済む時代に、わざわざ切手を貼って手紙を送る人なんて。
封筒を手に取ると、そこには懐かしい筆跡で私の名前が記されていた。差出人の名前はない。しかし、この文字を見た瞬間、私の胸の奥が小さく震えた。
「晃……」
私は自分の部屋に入り、ドアを閉めた。窓から差し込む夕暮れの光の中で、ゆっくりと封を切る。そこには三年前の日付が記されていた。
『高橋 瑠璃へ
これを書いているのは、卒業式の三日前。窓の外は雨が降っている。お前は今頃、何をしているだろう。
実は書きたいことがあって、でも言葉にするのが下手で。だから手紙にした。
あの日、図書館で……』
手紙を読みながら、私の記憶は三年前へと遡った。
中学三年生の冬。古い図書館の一番奥の席で、私と晃は隣に座っていた。期末試験の勉強をしていたはずだった。外は雪が降り始めていて、窓ガラスが白く曇っていた。
「瑠璃」
晃が小さな声で私の名を呼んだ。
「なに?」
「俺、ひとつ決めたことがある」
彼は言った。目を合わせずに、ただ前を見つめながら。
「高校、違うところになるかもしれない」
「え、でも——」
その時、私の胸に広がった感情は、今思い返しても名前をつけられない。不安でも、寂しさでもない。もっと、透明で繊細な何か。
「でも、約束がある」
彼はそう言って、教科書の隙間に小さな紙切れを滑り込ませた。開いてみると、そこには一行だけ書かれていた。
『またここで会おう』
その「ここ」が何を指すのか、その時は分からなかった。そして今も、分からない。
私たちは、それきり別々の高校へ進学した。連絡先を交換したはずなのに、どちらからも連絡することはなかった。SNSのアカウントも、お互いを探すことはなかった。まるで「いつか会える」という約束が、私たちの間にあったかのように。
手紙を最後まで読み終えた時、私の部屋の窓の外は、すっかり暗くなっていた。街灯の光だけが、遠くに点々と瞬いている。手紙の最後には、こう書かれていた。
『あの古書店、覚えているか。俺たちが初めて二人きりで話した場所。もし良かったら、そこへ来てほしい。伝えたいことがある。
三枝 晃』
古書店——。確かに、私と晃が初めて二人で話したのは、駅前の古い本屋だった。雨宿りをした狭い店内で、彼が私に本を勧めてくれた。タイトルは思い出せないけれど、表紙は水色だった気がする。
でも、この手紙が書かれたのは三年前。今さら行くべきだろうか。彼は今、どこにいるのだろう。
窓の外を見ると、夜空に小さな星が瞬いていた。春の夜は、遠い記憶のように静かだった。
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