第2章 揺らぎ3

 一夜明けて、昨夜の混乱は三好の内にはさして残っていなかった。この三好という男は元来人より刹那的なものの見方をする質で、一つのことを自分一人の胸の内で考え続けることをしなかった。だから、尊に対してまずは覗き見たことを謝って、彼のふしだらな振る舞いの動機を聞き出し、なんとか改める方向へ説得しようと考えた。

 授業を終えて地下倉庫に向かう。しかし、倉庫の鍵は珍しく閉まったままだ。おかしいなと思いまばたきをしてみれば、尊の糸はてんで別の方向を指している。仕方がないので糸に従い道をたどれば、昨夜も訪れたバイト先の店に繋がっているようだった。時刻は午後四時だ。明るい時間に訪れるのは初めてだった。

 店に入れば階下からピアノの音が聞こえてくる。弾いているのは尊であった。

「あれ三好くん」

 梶が驚いたように声を掛けて来る。視線で尊を示せば、

「ああ、今日の夜、急遽代打を頼んだのよ」

 と軽く答えが返ってくる。

「代打?」

「そう、ジャズバンドのピアノが急な病欠」

「なるほど」

 三好は頷きカウンター席へと座る。尊が楽譜を見つつピアノを弾いているのを確認し、ポケットにしまっていた鍵を梶へと渡した。

「ありがとうございました」

 そう伝えれば、彼女は無言で頷いて鍵をしまう。特に何か言うつもりはないようだ。

 折を見て尊と話そうと思っていた三好であったが、結局尊はバーの夜営業が始まる七時まで、ピアノの前から離れなかった。邪魔するのも悪かろうと思い、三好も珈琲一杯でダラダラとカウンターで時間を潰す。六時、楽器を担いだ人たちがやってきて、飛び入りの彼と挨拶を交わし、音を合わせ始めた。

 あんな男でも、他人の呼吸を汲んで演奏することができるのだなと三好は感心した。彼一人で演奏する時は、笑いながらも殺気立っているように見える。「お前に耳があるのなら俺の音以外を聞くな」そんな風に言いたげな圧を発している。その静かな圧に圧倒されて、観衆も耳を澄ます。

 今日の尊は力を抜いて裏方に徹している。人当たりも良く、終始にこやかに会話に応じる。初対面の年長者を前に、年相応に緊張する初々しさも見せる。その余りに自然な態度は、昨日の出来事が彼にとってなんら特別なことではないのだと物語る。三好はなんだか複雑だった。

 本番も卒がなかった。

 三好は、今日も尊が縁を断ち切る暴挙に出るか不安だった。だから演奏中にまばたきをして尊の指に視線をやった。その時に違和感を覚える。

 尊の指には見慣れた三好の赤い糸、そしてふわふわと移ろう繋ぎたての縁の糸がいくつか。それともう一本、やけに存在を主張する糸があった。目を凝らして先をたどってぎょっとする。

 昨夜、尊といた男が聴衆の中にいる。

 体の関係を持てばお互いに情が湧くのは当然だ。見る限り、繋いだ糸も悪縁のようには思えない。三好は一時動揺したが、すぐにそれが普通のことであると思い直した。慌てる必要などない。視線を外し、一口酒を口に含む。

 尊がステージを降りる時に容赦なく糸を切る様は、三好にとって眉をしかめたくなる行為である。にも関わらず、この時の三好は分不相応にもこんな考えを抱いた。


 今日、尊がステージを降りる時、彼はあの男との縁も容赦なく切るだろうか。


 期待したのだ。思ってからすぐに、自身の糸が尊の指に残されていることに悦を感じていると気付く。気付いて自分に幻滅した。三好は自身の利益のためにその力を使うことを嫌っている。不自然な縁結びや絶縁は軋轢を生む要因になるし、見えずとも関係の変化に気付く人は少なくないのだから、それを見る力があることで、何かを思いたくないのだった。

 ライブ終わりの拍手の中で尊は深々とお辞儀をし、メンバーと握手を交わし、端からそっとステージを降りた。代打だからなのか、縁を断ち切るようなことはしなかった。

 尊はこの日は誰かと話をすることもせず、まっすぐ三好の方へ寄ってきた。「おつかれ」と声をかければ随分と疲れたようで長いため息をついている。

「何飲む? 一杯奢る」

「いいの?」

 カウンターには三好が頼んだ料理がいくつか残っている。三好は尊を労いつつ料理を皿に分けてやった。

 さて、どう話を切り出すべきだろうか。いや、こんなに人がいる場所でする話ではないだろうか。そもそも今、尊は一仕事終えたところで疲れているし……。

 言い出さずに済む言い訳は幾らでも思い付く。そんな風に三好が時間を無駄にしている間に近づいて来る人がいた。

「おつかれさま」

 尊に投げかけられたその言葉は、なぜか隣にいる三好に対し攻撃的であった。三好と尊は揃って声の方を向く。尊の隣に昨夜の男がグラスを片手に立っていた。一瞬、睨み合いのような沈黙があった。

 尊はパスタをフォークで巻き取りながら、

「……ああ、どうもありがとうございます」

 と、冷めた声音で応じた。並んでカウンターに座っていたので男と向かい合っている尊の顔を三好は見ることはできなかった。ただ、彼のその返事はあまりに他人行儀に思われた。警戒心すら滲んでいる。男もそんな反応は意外なようで、言葉に詰まったようだった。

 尊と男の糸は……まだ繋がっている。

 と、三好が思った矢先に呆気なく切断された。

 尊が一方的に男を拒絶したのだと分かる。しかし、縁とは一方の思いだけでどうにかできる代物ではない。例え、尊が不要と思い切り捨てても、相手がそれ以上に強く関係を望むのならば何度でも糸は現れる。だから、確かに尊と男の縁は切断されたが、もう既に復活しているのであった。三好は嫌な予感を覚える。一度断ち切られた縁が結び直される時、それは大抵、元の縁より強いものになるからだ。

 男は少し困ったように薄笑いを浮かべながら次の言葉を探していた。そして、選び出した言葉はどうやら最悪のものであったらしい。

「尊……」

 口から出たのは名前だ。呼ばれた途端、尊から怒気が膨れ上がって一気に溢れたような気がした。フォークがパスタの皿に力任せに突き立てられて、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響く。店内がシンと静まり返る。

「俺の、」

 彼の声は、彼の感情を鮮明に伝える。

「俺の名前を呼ぶ許可を、一体誰にもらったんだ?」

 声から伝わる強烈な嫌悪感が周囲の人を黙らせる。尊の白い指が器用に動き、フォークをくるりと回して銀に光る先端を男に向けた。

「お前など知らない。二度と話しかけるな」

 糸が、また切れる。三好は尊に気圧されそのやりとりを見ていることしかできなかった。尊の表情はやはり見えない。

 男は始め、予想外に向けられた敵意を理解できず呆気にとられたようだった。

 そりゃ、そうだろうと三好は思う。だって、昨夜、あれだけ肌に触らせて、キスを請わって、じゃあねと柔らかく告げて……。

 理解が追いつくにつれて男は怒りで顔を赤くした。恐らく三好と同じことを思っただろう。それで何か、尊に怒鳴ってやろうとしたのだろう。口を大きく開けて、しかし、自分に集まる周囲の視線に気付いてしまい、何も言えなくなってしまったようだった。怒りの次に屈辱と羞恥で顔を真っ赤に染めて、拳を握りしめた。殴るかと思った。だが、持っていたグラスを叩きつける様にカウンターに置いて、逃げる様にその場を去った。

 周囲の人々は、何事もなかったように食事と会話を再開した。気まずい空気が流れたのはほんの少しの間だけだった。カウンターを離れステージ近くにいた梶が、憤怒の形相で尊のことを睨んでいたが、尊はそんなことどこ吹く風で食事を再開するのである。

「おい、古堂」

「なに?」

 三好が困惑しながら声をかけても彼は普通だった。つい今まで、彼の隣には激昂した男がいて、彼に振り下ろしたい拳を苦汁を飲んで収めてくれた。そんなことが嘘みたいだ。

「今の」

「ああ、距離感おかしい人って怖いよな」

 淡々と答える尊が何を考えているのか分からない。

「いや、知り合いだろ」

「……さあ? あっちが一方的に知ってるだけだろ。話したこともないのに」

 顔をしかめた彼に三好は薄ら寒さを覚えた。

「いや……知ってるだろ。だって昨日の夜、ここで……会ってただろ」

 三好を悩ませた話のきっかけは思わぬ形で与えられた。それを聞いた尊はやっとフォークを操る手を止める。

 何か、訳があるのだとしたら力になってやりたいと思う。しかし尊の不誠実で不可解な態度に一体どんな訳があるのだろうか。三好には見当がつかない。せめて次に彼が発する言葉が、三好が理解できるものであることを望む。

「だから?」

 しかし、

「は?」

「会ってたから、何だと言いたい」

 残念ながら三好の期待を尊は呆気なく裏切った。

「何だって……あんな言い草、ないだろ」

「会いたいと言ったから会った。寝たいと言ったから寝た。好きだと言えと言ったから言った。それ以上に求めてくるなんて、厚かましい。何よりさぁ」

 料理の皿から尊は顔を上げる。白い美しい指がフォークを回す。指の上でくるりと弧を描いた銀食器は、鋭利な先端を今度は三好の鼻先に向ける。オレンジの照明を反射して、刃物のように光る。

「三好に関係がある?」

 尊は、三好の気分を害したことを楽しんでいるようだった。

「何が、おもしろいんだ。こんなことをして」

 三好の目に軽蔑の色があるのを見て、尊はフォークを持ち直し食事に戻る。薄ら笑いを引っ込めて沈黙する。話が通じない相手だとみなされた気がして三好は少し焦る。頭の中で縁が切れる様が思い出されて踏み込むのが怖くなる。

 やがて食事を終えた尊は席を立ち、二つのグラスに水を注いで戻ってきた。一つを三好の前に置いた。

「俺は、三好を友人だと思っていたけど思い違いだっただろうか。詮索して楽しい? それとも、三好も俺の腹の内が知りたくなった?」

 グラスの氷が音をたてて溶ける。三好は水を一口飲む。冷静になっても、彼の言い草に嫌悪感が募る。

「そういうことじゃない」

 そういうことじゃなかった。グラスを掴んでいた三好の右手に尊の左手が重なる。指とグラスの間に違う温度の指が入り込んで、自然とグラスから手が浮いた。細い指だと思っていたが、こうして触れると三好の指とあまり変わらない。骨ばっている。指が絡められる。尊の手は、グラスほどではないがひんやりとしている。嫌ではないのが嫌だ。

「三好がしたいなら、したいことをしようか。別に構わないよ」

 尊の声は先ほどの怒気をはらんだ声とは別人のようで、ややかすれていて、言葉を伝えるための最小限しか空気や鼓膜を揺らさない。不思議な響きの声だ。この声に、馬鹿な連中は皆、騙されてきたのだろうかと三好はひどいことを考える。

「違う。そうじゃない」

 尊が言うようなことは望んでいない。

「じゃあ何が言いたい。聞いてやる」

 絡められた手を振り払えないのは、糸が切れることを三好が恐れているせいか?

「俺は、お前が自分を粗末に扱うのが嫌だ」

「……ありきたりなセリフだ。女じゃないんだ。娯楽だろ。深く考えるな」

 三好は上手く頭が働かない。とにかく尊が自分の体を安売りすることを辞めさせたいと思っていた。だが、その理由を深く考えたくはない。

 三好は縁が見える。人と人との縁が繋がる瞬間も切れる瞬間も日常的に見たことがある。その分、三好は自分の指の糸が切れる瞬間を、並みの人間よりもはるかに恐ろしく思っている。糸が見える三好には、人の拒絶や嫌悪が目に見える。

 尊のことを友人として好いていて、性愛の対象ではないと思っている。人の気持ちや自分の体を弄ぶことは止めてくれと言ったとしても、確かに三好に関係がないと言えば、ないのである。しかし、こうして掌を触れ合わせてみると、なるほど人の体温と言うのは意外にも心地が良くて離れがたく思ってしまう。否が応でも体温が上がる。そんなことを思ったあとに、彼が誰に対してもこうして触れるのだと思うと、悔しいような気持ちにもなる。思って気付く。それって、友人に抱く感情か? 違くないか? どこまでが友人として許されるんだ。その線引きが分からない。間違えたら最後、きっと縁は切れる。

 しかし、結局、これが尊が問う「何が言いたい?」の答えなのだ。この気持ちを口にして、慈悲なくばっさり昨夜の男のように拒絶されて俺は立ち直ることができるだろうか。糸が切れる瞬間を受け入れることができるだろうか。

 だから問われても答えられなかった。

 沈黙してしまった三好を見て、尊はまた溜め息をついた。

「そんなに、考えること? どうでもいいでしょ」

 三好を見つめることを止め、彼は目を逸らした。興ざめだとでも言いたげだ。

 指が解ける。尊の指があった空白は、やけに冷えているような気がする。

 三好は彼の指先を目で追った。幸い互いの小指をまだ縁の糸は繋いでいる。赤い色をしている。三好は赤を、ずっと恋の糸だと思っていた。きっとそれは間違いだ。もっと複雑な感情が混ざり合った時、糸は赤色になるのかもしれない。

 三好は、他人を深く知るのが恐ろしくって、恋愛をしたことがなかった。

「お子様は早く帰んな」

 尊の優しく嘲笑うような声が、三好を突き刺して置き去りにする。


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