第2話 死体
俺は逃げた。血に染まった手が気持ち悪い。気づけば手元にあるのは、他人の命を奪った証。あの瞬間、冷徹な「a」の残留思念が俺を支配していた。それが何を意味するのか、俺はまだ理解できない。
ただ一つ、分かっているのは、この体に宿る「a」の過去が、俺の運命を狂わせているということだ。aが何者か分からない。名前も過去も、記憶はあまりに曖昧だ。だけど、間違いなくこの体は罪人として追われる身だ。こんなことが現実に起こるなんて信じられない。どうして俺が、こんなにも無力なままで転生させられたのか。声の主の意図が分からない。
「a」の記憶から、彼がした罪が俺の中で色濃く浮かび上がる。妹と両親を手にかけたその罪。冷徹で、何の躊躇もなく命を奪ったその姿が、俺の中でちらつく。だけど、俺はその一切を背負いたくない。
「死にたいわけじゃない。ただ、終わらせたかったんだ。悲劇を。」
その思いで、自殺を試みた。でも、まさかこんな形で転生するとは思わなかった。
痛む脇腹を押さえながらも、俺は必死に走る。幸いにも、この体は前世の俺よりもはるかに体力が高いおかげで、少しずつ追手を引き離すことができていた。だが、どこに隠れればいいのかが分からない。周りの景色は見慣れないものばかりだし、恐怖がどんどん膨れ上がってくる。
その時、目の前を猫が通り過ぎた。何かに導かれるように、猫は俺の周りを一周し、鳴き声をあげる。まるで「ついてこい」と言っているかのようだった。まさか猫に助けを求めるとは思わなかった。しばらく進むと 猫が立ち止まり、何かを探すように目を見開いた先に、こぢんまりとした一軒家が見える。奇妙なことに、その猫はどこからか鍵を持ってきて、その扉を開けた。俺もその後を追うように、家の中へ足を踏み入れた。
壁に沿いながら進んでいくと、突然、ガス灯の明かりが灯った。猫の足元にはガス灯の点火器のようなものがある。
暗闇の中、猫は一匹のシルエットで佇んでいた。そして、その猫が口を開く。鳴き声ではなく言葉を
「私の死体を見つけて。」
その言葉が、冷たい空気を切り裂いた。猫の言葉が頭の中で反響する。
俺はその意味が全く分からなかった。しかし、次第にその言葉が胸に重くのしかかってきた。死体? それは一体、何のことだ?
猫がまるで人間のように冷静に語りかける。その異様な光景に、一瞬、俺は思考を奪われた。だが、aのおかげだろう、表情ひとつ動かさず、黙って耳を傾けることができる。目の前の存在が何者なのか──その本当の意図を、慎重に測ろうとしていた。
「どうして猫なのに、言葉が話せる?」 押し殺していた違和感が、堰を切ったように言葉となって漏れた。
猫は首をゆっくりと傾け、答える。 「私の名前はアリア。元は──人間だったのよ。」 その声は遠く、氷のように冷たかった。 「あそこで、殺されて転生したの。……そして、死んだはずの私の死体は、どこかに消えたみたい。」
アリアが指し示す先には、朽ちかけた立派な家が建っていた。世界の終わりを思わせる、静まり返った空気が辺りを支配している。
「……あれが、私がかつて住んでいた家よ。」
無意識に、その家から目を逸らした。胸の奥にひっそりと、警鐘めいた不穏な感覚が芽生えていた。
俺もまた、転生した身だ。だが、アリアの話は、そのどこか異質な響きがあった。
「驚かないの?」 アリアが小さく首をかしげる。
「俺も──似たような体験をしてるからな。」 俺は静かに答えた。感情を押し隠し、あくまで冷静に。
間髪入れず、話を進めた。 「それで? なぜ俺が、あんたの死体を探さなきゃならない? 警察の仕事だろ。」
アリアの瞳が細くなり、まるで獲物を狙う猫のような鋭さを帯びる。その目に宿る光は、計り知れない闇を秘めていた。
「世間では、私の死は”自殺”と片付けられてるわ。死体は野良犬に運ばれたって、そんな話で。」 アリアは淡々と、しかしどこか苦しげに続けた。 「けれど──私は殺されたの。伝えなければならないのよ、私がなぜ死んだのか。その理由を暴かない限り、私の物語は終わらない。」
言葉の一つ一つが、冷たい闇を孕んで空気に溶けた。
アリアは立ち上がり、細い足取りで歩き出す。 「あなたが見つけるべきは、ただの死体じゃない。真実に至る鍵よ。」
ふいに、彼女の視線が俺を突き刺す。 その目は、冗談では済まされない真剣さに満ちていた。
「──あなた、逃げてるんでしょう?」
その一言で、背筋を氷水で叩かれたような感覚に襲われた。
「……あなたは殺人を犯して、隠れる場所を探している。違う?」
俺は声を発することもできず、ただその場に立ち尽くす。
アリアの瞳が、冷たく鋭い光を放った。 その口元には、ぞっとするような笑みが浮かんでいる。
「もし、私の死体を見つけることができたら──この家、あなたにあげる。」
言葉と同時に、心の奥に小さな波紋が走った。 だが、俺は警戒を緩めなかった。 あの女は、何かを企んでいる。
「だが、俺があんたを殺すかもしれない、とは思わないのか?」
自分自身を試すように、俺は問いかける。
アリアはにやりと唇を吊り上げた。 「無理よ。この家には、あなたが知らない秘密が山ほどある。」
その言葉に、胸の奥でわずかな不安がざわめいた。
「ここで私を殺したら、あなたの運命は最悪のものになるわ。あなたが望む結果には、絶対に辿り着けない。」
俺は何も言わなかった。ただ、彼女と視線を交わし続けた。 そして、心の中で決断する。
──この出会いが、自分の運命を大きく変えるだろうことを、直感で悟った。
「……どうしても、断れないようだな。」
静かに、迷いのない声で言った。
アリアは満足そうに微笑む。 「ええ、よろしくね。」
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