守りたいもの

 借家の土間から、粥の米の香りが漂う。

 お兄の細い指が、木の杓子をすっと滑らせるように動かす。

 その動きはまるで筆で絵を描くように繊細で、鍋の中で粥をこがさないように静かに波を刻んでいく。

 瓦屋根の家の欄干には鳳凰文様が彫られ、窓には郷民キョウミンが貼った赤い霊符レイフが揺れる。


赤月哭セキゲッコクキョウと違って、息苦しさがない。このキョウは確かに過ごしやすいんだよな」


 円卓に肘をついて身を預けるようにしながら、俺はお兄の姿をぼんやりと追った。


「お兄、いつもありがとな」


 俺は自然と笑みを浮かべる。

 赤月哭セキゲッコクキョウの記憶がよぎる――罵声と石投げの日々。


「お兄。本当にキョウを出てきてよかったのか?」


「ん? 何言っているの? 当然じゃない。郷長キョウチョウが何かを企んでいるのは明白だったし、その犠牲になるくらいなら、迷わず出るべきよ」


「お兄だけなら、赤月哭セキゲッコクキョウで、もう少しは過ごせたかもしれないのに……ごめん」


「謝らないで、龍剣ロンジエン。早かれ遅かれ、私はキョウを出ていたと思う」


 野宿の日々は、決して楽なものではなかった。

 夏であっても冷え込む夜、硬い地面、どこにも安息の場などなく、ただ身を寄せ合うことでしか暖をとれなかった。

 そして、この世界では、野生動物だけでなく、山賊や盗賊も脅威だった。

 食糧を奪われれば命に関わるし、何より人間の狡猾さが一番恐ろしい。


龍剣ロンジエン、もうすぐできるわ。もう少しだけ待ってね」


 お兄の声は、静かな湯気に溶けるように柔らかかった。

 こんなに気が張っていないお兄を見るのは久しぶりだった。

 お兄にあまり心配はかけたくない。

 お兄の背後の壁には、いくつもの赤い霊符レイフが貼られていた。

 どの霊符レイフも、端がほんの少し焼け焦げたように変色し、まるで年月を重ねてもなお、役目を果たしていることを証明するかのように見えた。

 んんん?

 よく見たらその紙、めっちゃピカピカの新品じゃん!

 でも周りが変色している!

 ゾワッと背筋にさむいものが伝った。

 気になる、超気になる!

 今まで気にしないでいようと思ったけどさ。

 

「ていうか、ちょっと数えてみよう。1、2、3…………25!? いや、多すぎだろ!」


「25枚? でも、霊符レイフって多ければ多いほど幸福になれるんじゃないかしら? 赤色が可愛いし私は好きだわ」


「そういう話じゃないと思うんだけど……」


 こんなに霊符レイフが多すぎるのは、ただの信仰心の範疇を超えているんじゃないか?


「あら、この家の霊符レイフは全部で53枚よ」


「マジか……。おっと。……そんなにあるんか」


 ついつい前世で使っていた言葉がでちゃうな……。

 そんなことよりキョウ全体が「ヤバイもんが来る!」と恐れているような……そんな気配が、どうにも拭えなかった。

 家の木戸に霊符レイフを一枚貼るのは、よく見る光景だ。

 しかし、このキョウでは、どの家々も複数枚貼っている。

 それに、このキョウに来て数日間はわかるが、一週間たった今も俺たちを見てはコソコソ話してるのを何度みたことか!


「このキョウ、歓迎してくれるけど、なんか怪しい。お兄を守るため、俺が目を光らせるよ」


 俺は、今世はーーお兄がそばにいる限り、俺が守る。

 そう決めているんだ。

 俺の言葉に、お兄はゆっくりとまばたきし、わずかに視線を落とし粥を見ている。


龍剣ロンジエンと一緒なら、どこでもいいのだけど……」


 窓の外では、細長い竹の葉が揺れ、夜の闇に紛れてさざめいていた。


「だいたい、キョウ民が優しすぎるのもおかしいだろ?」


「それは、いいことじゃない。少なくとも今は安心して食事ができるでしょう?」


 お兄は、ふと小さく笑いながら「そんなに疑ってばかりじゃ、おいしい粥もまずくなってしまうわよ?」と冗談めかして言った。

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