第20話 彼女の声が、はじめて震えた日①
その後は、ぼくの部屋で飲み直しだった。
いつの間にか夜の11時を回っていた。サークルの仲間たちは、三々五々、それぞれの下宿へと帰っていく。ぼくは二階の階段下までみんなを見送った。
帰り際に鈴木さんは、ぼくに向かって言った。
「なあ、佐藤くん。きみとぼくは同じ
「えっ、ええ……」
「タメじゃん……マジで」
「はい」
鈴木さんはしばらく夜空を見上げてから、ポリポリと頭を掻いた。
「……いやあ、なんつぅか、これまできみを『後輩』として、どっか下に見ていたことが、恥ずかしくなったわ。年齢は、ただの数字だと思っていたけど、いざ同じ数字だとわかると、何か見方が変わるな」
「そうですか?」
「いや、もう、そんな、他人行儀じゃなくていいから」
そして鈴木さんは独り言をつぶやくように言った。
「うちのサークルは、避難所じゃない。だけど、ここで何かを書いて、誰かと向き合って、自分と向き合って……そうして、やっと生きてるって感じる場所なんだ……確かにきみはこの3月まで高校生だったとは思えなかった……妙に大人びていたというか、少なくとも僕の周りの誰とも違う。普段は物静かだけれど、時々、妙に本質を突くようなことを言う……ああ、それはたぶん、『生きてきた時間の密度』ってやつだ」
「生きてきた時間の密度?」
「ああ、ぼくたちが大学の授業やサークル活動にうつつを抜かしてた2年間、きみはたぶん、もっと別の場所で、別の戦いをしてたんだ……僕はきみに『年下の後輩』じゃなく、『同じ年齢の男』として向き合いたくなった。改めて、よろしくな」
「はい……ああ」
鈴木さんは、ぼくとガッチリ握手をすると、時々ぼくの方に向かって大きく手を振りながら自分の下宿へ帰っていった。
気がつくと、ぼくの横に美佐さんだけが立っていた。
「……今日は、いろいろあったね」
「うん。悠真くんのお父さんを見た時は、どうなることかと思ったけど」
手提げバッグを胸に抱き直しながら、美佐さんは微笑んだ。
「まあ、終わりよければすべてよし、だよ。また、やろうね……今度は、二人でも」
その言葉に、ぼくは軽くうなずくしかなかった。すると彼女は、そっとつま先立ちになって、ぼくの頬に唇を寄せた。温かくて、優しくて、すぐに消えてしまいそうな一瞬。
戸惑いを感じる間もなく、美佐さんは小さくささやいた。
「……またね」
そして、夜の静けさに包まれるように、彼女はゆっくりと帰っていった。
その背中を見送った後、ぼくは小さく息をついた。部屋に戻ろうとした時、背後から足音がした。
「……ねえ、悠真くん」
莉子だった。どうやら、まだ帰っていなかったらしい。
「……残ってたの?」
ぼくが少し動揺して尋ねると、莉子はフッと笑った。だけど、どこか寂しそうな笑みだった。
「……ちょっとだけ、お月さま見てたの。夜風が気持ちよくて」
そのまま、彼女はぼくの隣に立った。少しの間、言葉が見つからず、二人とも黙って空を仰いでいた。やがて、莉子がポツリと言った。
「さっきの、見ちゃった」
「えっ?」
「美佐先輩とのキス……あたし、見ちゃった」
言葉に詰まるぼくを見て、彼女は肩をすくめた。
「別に怒ってるわけじゃないから……ただね、ちょっとだけ、胸が痛くなったの」
静かな夜気のなか、莉子の声だけが、はっきりと響いていた。
「……私、恋愛って、よくわからないんだ。前に言ったでしょ。高校ん時、好きな人がいたけど、その人、一家心中で死んじゃったから……それ以来、誰かを好きになってもふざけて誤魔化すようになった」
「そうだったんだ……」
「でも、悠真くんを見てると、ちょっとだけ……『好き』って気持ちが、またわかるような気がして。でもね、それと同じくらい……美佐先輩と一緒にいる悠真くんを見てると、安心もするんだ」
莉子は、そっと目を伏せた。
「正直言って嫉妬もある。でもね、それよりも……悠真くんには、幸せになってほしいって思う。私のことは、気にしないで。ちゃんと、前に進んで」
「莉子……」
「うん」
彼女は小さく笑って、それからくるりと背を向けた。
「じゃあ、私も帰るね……また、明日」
ぼくは、何も言えなかった。ただその背中を見送るしかなかった。美佐さんとは違う形の、でも確かに温かい何かが、胸の奥に残っていた。
玄関のドアを閉めると、静寂が部屋を包んだ。
冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく響いていた。
誰もいない、たった六畳のワンルーム。さっきまでの笑い声は嘘のように消えていく。ソファの背にもたれて、ぼくは深く息を吐いた。
美佐さんと交わしたキス。莉子の微笑み。そして、鈴木さんの言葉。
どれもが、胸に引っかかっていた。
──これでよかったんだろうか?
そんな言葉が、自然と浮かんできた。
美佐さんのことは、好きだと思う。彼女の言葉に、救われた瞬間がいくつもある。オレの過去を否定せず、認めてくれたぬくもりは、嘘じゃない。
でも、莉子のあの目も、嘘じゃなかった。
あの目は、自分を押し殺して誰かを応援しようとする目だった。ほんの少し前の自分が、誰かの幸せを祈ることすらできなかったのに――今、彼女はちゃんと祈ってくれている。
人の気持ちは、こんなに優しくも、切なくもなれるのだろうか。
そう思うと、ぼくは思わず涙が頬を流れていた。
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