第12話 過去からの距離②
小一時間が過ぎ、ぼくは一つの原稿に釘付けになっていた。
――春の日、彼女は、風のように僕の前に現れた。
その冒頭で始まる物語は、まるで美佐さんのように明るくて、でも穏やかで――最後にはどこか胸がキュッとなるような切なさを残していた。
「これ……誰が書いたんだろう?」
つぶやいたぼくに、美佐さんは少し表情を曇らせた。
「……それ、たぶん、『封印された原稿』だよ」
「封印?」
「うん。なんか、部内で揉めたんだって。あまりにもリアルすぎる恋愛描写が、ある先輩と先輩の関係を暴露してるって」
「へえぇ……」
「でも、私ね。この話、すっごく好きなんだ。何度読んでも、心が動くから」
そう言って、美佐さんはぼくの隣に腰を下ろした。
距離が近い。心なしか、肩が少し触れた。
「……もしよかったらさ……今度、一緒に書いてみない?」
「えっ?」
「短編小説。二人で合作って、面白くない?」
彼女の笑顔に、ぼくの胸はまた跳ねた。
このやりとりから始まった物語は、たぶんきっと、小説よりも不思議で、ちょっとだけ青春だった。
部室の木製の長机に、ノートパソコンがぽつんと一台。その画面には、たった一行のテキスト。
――春の日、彼女は、風のように僕の前に現れた。
「……なんか、ありきたりかな?」
「いや、いいと思うけど。むしろ『らしい』って感じ」
美佐さんはそう言って、オレの肩越しに画面を覗き込んできた。
――いや、距離近いって。絶対わざとでしょ、それ……。
「で、どっちが『彼女』書くの? 私? それとも佐藤くんが?」
「いやいや、そこは……女性目線のほうが自然じゃないかな?」
「じゃあ、私は『彼女』ね。でもそっちの『僕』がしっかりしてないと、ラブストーリーって成立しないから」
「えっ、そんなプレッシャーを!?」
まさか大学のサークルで、女子と二人で恋愛小説を書くことになるなんて、入学前の自分に教えたらびっくりして卒倒すると思う。
「ちなみに、ジャンルは?」
「王道の青春ラブ、でしょ?」
「……だよねえ」
思わずため息が出る。けど、なぜか口元が緩むのは、たぶんこの空間が心地いいからだ。
そんなふうにして始まった「合作小説プロジェクト」は、思った以上に楽しく、そしてちょっとだけ難しかった。
「『彼女が見つめたのは、真っ赤な夕日ではなく、隣に座る僕の手だった』って……これ、地味に破壊力ありますね」
「ふふ、ちょっと攻めてみた」
「攻めすぎじゃあ……?」
「なによ、そっちの『僕はその視線に気づかないふりをした』ってのもズルいじゃん!」
放課後の部室に響く笑い声。
他の部員たちは興味津々にこちらを覗いてきて、「お、青春してんねぇ」なんて冷やかす人も。
けど、その雰囲気が不思議と悪くなかった。
その週の「日本文学史」の授業で、榊教授はゆっくり黒板に「自然主義文学」と書き、学生たちを見渡すと言った。
「さて、皆さん。『自己の赤裸々な内面を暴露する』こと。それは、果たして『勇気』と言えるでしょうか?」
学生たちは一瞬沈黙する。榊教授は静かに続ける。
「田山花袋は『蒲団』で、島崎藤村は『新生』で、自分の弱さや恥を、あえて作品に書いた。家庭、恋情、劣情……読んでいて目を背けたくなるような内容も少なくありません。しかし、彼らはそれを『文学』にした」
榊教授は教卓の縁に片手をかけ、言葉を区切った。
「ある人は言います。『あれは自分勝手な開き直りだ』『読者を不快にさせて何が文学だ』と。私も若い頃、そう思いました。ですが、歳を重ねて思うようになりました。『人前で恥をさらすには、覚悟がいる』と。」
そこで教授はいったん言葉を区切ってから続けた。
「勇気とは、剣を振るうことばかりではない。自分の弱さを晒して、読者の軽蔑をも受け入れることもまた、勇気です。」
それから、教授はつぶやくように言った。
「ただし、それが『自己陶酔』で終われば、それは勇気ではなくナルシシズム。文学に昇華できているかどうか——そこが、覚悟と才能の境目です。」
講義の後、部室へ向かいがてら、ぼくは美佐さんにポツリと言った。
「……恥を晒すって、そんなに価値あることなのかな? 怖いと思わない?」
美佐さんは静かに笑って、小声で答えた。
「でも……誰かに見せたくなる時があるよ。『私はここにいる』って、証明したくなるときが……たぶん。」
そして、美佐さんはふと、真剣な表情で言った。
「ねえ……小説ってさ、自分をちょっとだけさらけ出すことだと思うんだよね」
「……うん。わかる気がする」
「だから、私が『彼女』をちゃんと書けるように、佐藤くんが『僕』をちゃんと書いてくれないと、きっとこの話は動かない」
「責任重大だね」
「でも、任せたくなる『僕』を書けるの、佐藤くんだけだから」
その言葉に、心のどこかが静かに震えた。
もしかして――。
いや、まさか、ね?
でも、もしこの小説が書き上がったら、何かが変わる気がした。
ぼくは意を決した。
言葉が喉の奥でつかえて、なかなか出てこなかった。
過去のことを話すのは、いつだって怖い。自分が壊れてしまいそうで、誰かの目が変わってしまいそうで。
けれど、言わなきゃ前に進めない。
これ以上、自分を隠したままじゃ、彼女とちゃんと向き合えない。
そう思ったのは、美佐さんだったからだ。あの目が、あの声が、あの静けさが――きっと、自分の痛みを受け止めてくれると、どこかで信じていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます