第11話 過去からの距離①
「でね! 電車でちょっと変なおっさんに触られたら、悠真くんがすっごい勢いで間に入ってくれてぇ!」
部室は、いつものようににぎやかで、コーヒーの苦い香りと誰かが持ち込んだクッキーの甘い匂いが混じり合って漂っていた。
「まさにナイトって感じ? あたしビックリしちゃってさ、もう惚れ直したっていうか!」
莉子がぼくの右目を指さす。マンガのような「あざ」がまだかすかに残っていた。ぼくは曖昧に笑い、みんなの前で頭をかいた。
「いや、ほんと大したことなかったから」
「でも血とか出てたじゃん? 後で見たけど、たぶん3、4針くらい縫ってもおかしくなかったんじゃないかって」
2年生の女子が面白そうにつっこみを入れる。
「小林さんの話、日ごとに大きくなってない? そのうち相手が刃物持って向かってきたとか言い出しそうだよ」
鈴木さんも笑いをこらえながら肩をすくめた。
「次は『特命係長・佐藤』って呼ばなきゃだな」
ただ莉子は、自分が痴漢を殴り倒したことは喋らない。過去、「ヤンチャ」だったという話もしない。だから、オレもその話はしない。
でも。
どんなに楽しいひと時でも、ふと、ぼくの心をよぎるものがある。
それは、浪人して再び受験したT大理Ⅲを再び落ちた時の記憶だ。
あの時――ぼくの勉強部屋のドアが、まるで重罪犯を裁く最高裁法廷の扉のように重々しく開いた。
「……悠真、またダメだったのか?」
父がぼくの「不」合格通知を一瞥しただけで、周りの空気が凍りついたように思えた。
ぼくは喉を詰まらせたように、小さくうなずく。
「言ってみろ。なぜ落ちたんだ?」
父の声は感情を押し殺しているようで、逆に剝き出しの怒りを感じさせた。
眉間の皺が、まるで刃物で作られたかのように深く刻まれている。
「……向いてないんだ。理系は。たぶん……」
静かに言ったつもりだった。だけど、その瞬間、空気が裂けた。
バンッ!
頬が熱い。いや、痛い。
「向いてないだと? 甘えるなっ! お前は何のために生まれたんだっ! この家を継ぐためだろうがっ!」
ぼくに向かって怒鳴り散らす父の目には、もはやぼくという人間は映っていない。
そこにあるのは、「落ちた医者の卵」という、ただの不良品だ。
「お前は明治から5代続いたこの病院を潰す気かっ!」
このセリフをもう何百回聞いただろうか。
「文系の方が成績がいいだとぉ? そんなもんで飯が食えるかっ! お前の人生、医者だけが正解なんだっ!」
そしてまた平手打ち。
父の掌が続けざまに飛んでくる。
ぼくは抵抗しない。ただ、目を閉じて、心の中で小さくつぶやく。
――だったら、なんでぼくは医者になれるように生まれてこなかったんだろう。こんな時、兄さんがいてくれたら……。
5年前にT大理Ⅲに現役合格した兄は、一昨年、冬山登山で遭難して、そのまま戻ってこなかったのだ。
息をするのが少し苦しくなる。何も空気が冷たいからじゃない。ぼくの中に、ずっと凍ったままの季節があるからだ。
兄が死んだ直後から家の空気が、何かが詰まったビニール袋みたいに、ピシピシと張りつめるようになった。
父は怒鳴ることが増えた。いや、もともと怒鳴る人だったけど、兄がいなくなってからは、怒鳴るか黙るかのどっちかになった。テレビの音が少しでも大きいと「うるさい!」と怒鳴り、ぼくの模試の成績が下がれば、手元の物が飛んできた。
母は……よくわからなかった。ただ、冷蔵庫の前に立ちすくんだまま何十分も動かない日があったり、テレビをつけたまま目を閉じていたりした。話しかけても返事は無く、ぼくの弁当が白飯とたくあんだけの日もあった。
家族の間で、会話はもうできなかった。父は怒鳴り、母は沈黙し、ぼくは何も言わずに部屋へ引っ込む。それが、ぼくたち家族の「日常」になっていった。
兄がいた頃、家の中にはもっと音があった。笑い声も、ふざけた歌も、くだらない兄弟ゲンカも。でもそれは、雪に埋もれた山小屋みたいに、音も色もすべてが閉ざされた過去の記憶になった。
そして、いつからかぼくは、笑うことに少し臆病になっていた。
気がつくと、視界がぼやけていた。涙じゃない。目の上が切れて、血がにじんでいた。
二浪が決定した直後、父はぼくの部屋にあった本を「ゴミ」と呼んで、本棚ごと処分したのだった。
ぼくは今でも、その頃の夢を見る。
「文学なんか、ただの紙切れ」
ぼくは父に、そんなふうに言われ続けていた。
でもぼくは、それでも信じていた。
「ことば」が誰かを救うことがあると。
「ことば」だけは、ぼくを殺さなかったと。
5月のある日。
ぼくが部室の扉を開けた瞬間に目に入ったのは――。
「うわぁ、なっ、何、これ?」
床一面に散らばる原稿用紙と、机の上に積まれた古びたノートたち。
その真ん中に座り込んでいるのは、美佐さんだった。
「わあっ、ちょうど来てくれた! ねえ、これ、サークルの倉庫から出してきた『伝説の原稿』たちなんだけど……読んでたら止まらなくなって……」
「伝説の原稿……?」
「なんかね、20年くらい前にこのサークルで活動してた先輩たちの作品らしいんだけど。すっごいクオリティ高くってさ」
美佐さんは、少し黄ばんだ原稿用紙の束を大事そうに手渡してきた。
手書きで綴られた文章。少し古風だけど、どこか瑞々しい感情が溢れていた。
ぼくはさっと何枚か目を通してから言った。
「……これ、普通に商業誌レベルじゃないですか?」
「でしょ! だからちょっと、今日は『この中で一番すごいと思った作品を選ぶ』ってのをやろうと思って!」
「えっ、いきなりそんな……」
「まあまあ、そんなこと言わずに」
その笑顔、ホントずるい。
だけど、文章に吸い込まれていく感覚は、たしかに悪くなかった。
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