第3話 転
「実習生来るの、今日だっけ? 」
朝食を終えて研究所に向かう途中、川上がニヤニヤしながら俺に尋ねて来る。
「うん、確か今日だと思う」
俺は一週間くらい前に、朝のミーティングで准教授がそう言っていたのを思いかえしていた。
夏休みになると、実習と言う名目で、学生が研究所で飼育している魚の世話の為にアルバイトに狩り出されるのだ。あくまでも希望者だけなので、狩りだされると言うと語弊があるかもだけど。
飼育と言っても、研究しがてら実質養殖業を経営しているような感じなので、実際に市場に出荷したりしている為、規模が大きく、しかも力仕事が多い。それ故に、大体は男子学生ばかりだ。
「今、橋の向こうの寮のそばに新しい寮を建ててるだろ。あれ、女子寮らしいぞ」
「マジか!? 」
「おうよ。因みにだけど、何でも俺達の研究室志望の女子が結構いるらしいぞ」
「へええ。意外だな。ほとんどバイテクの方に流れるのかと思ったけど」
「俺達、院に進めば向こうの寮に移動だろ? ラッキーだよな! 」
川上は血走った眼で、口から泡をとばしながら嬉しそうに声を震わせた。。
こいつ、間違いを起こさなければよいが・・・。
「今日来るメンバーに知ってる奴はいるのか? 」
「男子が十名と女子が六人来るんだけど、春先の短期実習の時に来た三年生のあの二人も来るらしいぞ。この話、多分に俺以外は知らんと思う」
川上は鼻腔を膨らませながら得意気に胸を張った。
俺としては女子限定で聞いたわけじゃないのだけれども。
何処でどうやって情報を仕入れて来たのか――川上の情報収集力には、舌を巻く。
研究所に着いた俺達は、正門をくぐるとまっ直ぐミーティング室へ向かった。ここで簡単な打ち合わせをした後、担当の技術員と一緒に持ち場の生簀に向かうのだ。
「お早うございますうっ! 」
尻上がり気味の挨拶に振り替えると、ジャージ姿のショートヘアーの利発そうな女子が笑みを浮かべている。
「あ、江村さん! 」
「先輩、名前覚えてくれてたんですね」
「そりゃあ、覚えてるさ」
きらきらと目を輝かせて見つめる彼女――江村美海に、俺は苦笑で答えた。
五月にあった一週間の短期実習の時に、彼女とは生簀の給餌作業を一緒にやった事がある。積極的に作業に取り組むし、人当たりも良くて好感を持てる人柄なのだが、それ以上に俺の記憶に印象付ける強烈な出来事があった。
実習の最後に開催された俺達との懇親会で、海に落っこちたのだ。
会場は研究所の船着き場近く。陸続きの生簀が連なる桟橋で起きたのだが、酔っぱらった彼女がふざけて俺を海に突き落とそうとして、反対に自分が落っこちたのだ。
幸い、落ちた場所が生簀の上で、鳥よけのネットが張ってあったので大事には至らなかったが、全身ずぶ濡れ状態の彼女を引き上げたのが俺だった。
酔いのせいなのか、海に落ちたショックなのか、足元がふらふらして自分では歩けない状態だったので、俺がおんぶして宿泊先の寮まで運んだのだ。
その時付き添って彼女を着替えさせたり解放してくれたのが、今、江村の横に佇んでいる女子――倉野祥子だった。快活な美海とは対照的で、落ち着きのある物腰。さらさらの長い黒髪が人目を引くものの、その清楚な風合いは神々しくすら感じられ、敷居の高い存在のように感じられる。
美海が日差しを受けながら魚に給餌したり網を引くのは何となくイメージに即しているが、祥子には何となくそぐわなような感じがするものの、本人はそうでもないようで、先の実習の時でも黙々と作業に徹していた。
どう見ても正反対なこの二人が仲が良いのは、お互いに自分が持ち合わせていない魅力を相手に感じるからなのかもしれない。
因みに、川上が言っていた「あの二人」は彼女達の事だ。奴は倉野を狙っているらしい。春の短期実習時に、あからさまなアプローチを大胆に仕掛ける他の連中には後れをとっていたものの、地道にコミュニケーションをとる姿勢は涙ぐましかったのを覚えている。
「これから、ミーティング室に行くんだよね」
川上が祥子に微笑み掛けた。
「はい。その時に配属が発表になるそうです。私は生簀の方に出たいんですけどね」
「その時は宜しく」
祥子の返事に川上は上機嫌で答えた。目が見事に波打っている。実に分かり易い奴。
ミーティング室に入ると、直行組の友人達が既に待機していた。俺達が四人で現れたのを見て、手を出すのが早過ぎだとか、フライングだとか言って囃し立てる輩が何人かいたが、それハラスメントだろ。
教授と准教授、技術主任が入室し、実習生の紹介をした。その後、実習生の配属が発表され、美海は生簀担当で俺の補助、祥子は残念ながら研究所内の稚魚飼育槽の担当となった。
「一週間毎に持ち回りみたいだから、がっかりするなよ」
落胆の余りに「ムンクの叫び」リアル版の川上に慰めの言葉を掛ける。
技術主任から作業予定を聞いた後、俺達は各現場に向かった。
冷蔵庫から餌の入ったプラコンを引っ張り出し、船に積み込む。船と言ってもプレジャーボートと言うより漁船だな。俺は船舶免許を持っているので、運転を任せて貰ている。
「じゃあ、行くか」
「はい、お願いします」
美海が船に乗り込んだのを確認し、船着き場のロープを外す。
船が動き始めると、船縁に腰掛けていた彼女は俺のすぐ傍らに近付いて来た。
「先輩、私、船舶免許取ったんですよ」
「え、ほんと? 」
俺は驚いて彼女を見た。
「ええ、祥子に誘われて取りに行ったんです」
得意げに語る彼女を思わず二度見みする。美海からではなく、誘ったのが祥子からと言うのは意外だった。
「マジか。凄いな。あ、でもきまりでさ、実習生は運転駄目なんだよな」
「え、そうなんですか。残念――あ、でも来年ならいいですよね? 私、こっちの研究室希望なので」
「へええ、頼もしいな」
「先輩、院生で残るんですよね? 」
「うん。誰から聞いたの? 」
「祥子が言ってました。川上先輩から聞いたって」
「成程」
思わず苦笑。あいつ、陰で結構アプローチ掛けてるな。
彼女の話では、春の短期実習後に希望者が一気に増え、特に例年になく女子学生の人気が高いらしい。
学校が女子寮を急ピッチで造り始めた理由も頷ける。
程なくして、船は岸から最も離れた沖の生簀に到着。船を生簀ぎりぎりに寄せ、餌の入ったプラコンを降ろしていく。
幾つも連なる生簀にプラコンを下ろし終えた後、俺は船を生簀にロープで固定した。
「ここはトラフグの生簀ね。給餌は食べ具合も見ながら、魚のペースでやってくれるかな。それと、トイレに行きたくなったら声掛けて。岸に戻るから」
「はい、わかりましたあ」
「あ、ちょっと待って。鳥よけの網を捲るから」
俺は鳥よけの網を少し捲る上げると、ロープで縛り上げた。給餌を察したトラフグ達が、一斉に水面近くに上がって来る。
「じゃあ頼むね」
給餌を彼女に任せると、俺は船からタモ網とバケツを持ち出して、生簀の周囲を回った。
水面に浮いている死んだ魚を回収し、解剖して死亡原因に調査と生残率を割り出すのだ。
足場は不安定だが、板が渡してあるので歩き回るのに苦労はしない。
「餌を撒くの、もう少しゆっくりでいいよ」
「はああああい」
ガンガンと餌をぶちまける彼女を牽制しつつ、俺は網のヘリをくまなく凝視する。
死んだ魚は潮の流れにのって網の端に集まるので、その辺りを見ていれば大丈夫だ。
何気に、視線を生簀の外に向ける。近くの民間の養殖業者の船が、白波を撒きながら通過していく。
確か、あの辺りだな。
田村さんが最初に少女の遺体らしきものを見かけた場所は。
あれから何日たったのか。相変わらず、連日連夜同じ夢を見続けている。
でも、慣れというのは恐ろしい。
もはやそれが日常のルーティンであるかのように、当たり前のものとなってしまった。
それでも、俺なりに夢に込められたメッセージを読み取ろうとはしているのだけど、今だ皆目見当が付かない。
ただ、あの日以来、実際に彼女は俺の目の前に姿を現わせる事は無かった。
多分、彼女の目的が果たせたのだろう。自身が何者であるかを、俺に伝えるという。
供養して欲しいのかも――そう思って、彼女が見つかった辺りの歩道に花束を置こうと思ったのだが、川上に止められた。
ただでさえ魅入られているんだから、そんなことしたら向こうの世界に引っ張られるかもしれないと言うのが、奴の意見だった。
確かに。
今の感じじゃあ、俺は確実にあの女子校生の霊に魅入られている。
お祓いにでも行った方がいいのか。
俺は吐息をつくと、何気に足元の水面に目線を向けた。
何か見える。
水面下に漂う、黒い影。
無数の黒い線状のものが、放射状に広がっている。
髪の毛だ。
其れも長い。
ゆらゆらとたなびく髪の毛の中央に、白い顔があった。
あの、少女の顔だった。
苦悶に歪む顔。その表情は悲哀に満ちた暗い翳りに支配されている。
彼女の首から下を覆う、黒い管状の影。
其れはイソギンチャクの触手の様にうねうねと蠢きながら、少女の身体を包み込んでいる。
少女がかっと眼を見開く。
漆黒の闇を宿した眼窩が、俺をじっと見据えている。
彼女の体に纏わり付いていた黒い触手に動きが生じた。彼女の身体を執拗にまで束縛していた枷を、ゆっくりと解いて行く。が、同時に、それは彼女の身体を覆う衣服を剥ぎ取って行った。
透き通るような白い裸体。
俺を、誘っているのか?
いや、そうじゃない。
俺を見つめる眼には、絶望と恐怖が色濃く宿っている。
救いを求めているのか。
でも。
俺には、何もしてあげる事は出来ない。
ごめんなさい。
俺はそう心の中で念じながら、彼女を凝視した。
ふと、彼女の顔から感情が失せる。
それは、諦めの様に見て取れた。
不意に、彼女の身体が膨れ始める。
もはや原型を留めていないまでに膨張すると、張力を失った皮膚が柘榴の様に弾けた。
反動でしぼんでいく表皮。それを裏打ちしていた真皮が、崩れる様に削げ落ち、黄色い皮下脂肪が露になる。
再び、管状の黒い影が彼女に憑りつく。
うねうねと蠢きながら、皮下脂肪を掻きだし、内臓をむき出しにすると、それを押しのけながら彼女の中へと入り込んでいく。
頭皮が剥がれ、それと共に長い黒髪がごっそりと抜け落ちる。
彼女は、彼女ではなくなっていた。
もはや白骨だけが、かろうじて彼女の存在を示す証として留めているだけだった。
胃液が食道を突き上げる。
俺はその場に蹲ると、胃の中の物を水面にぶちまけた。
苦酸っぱい胃液が、口内に残る。
「先輩、大丈夫ですか? 」
いつの間にか、美海が俺の傍らにいた。心配そうな面持ちで、俺を見つめている。
「大丈夫」
俺は無理くり笑みを浮かべると、彼女に答えた。
「先輩・・・」
美海は戸惑いながらそう俺に声を掛けると、唇を耳元に寄せた。
「あの女、誰ですか? 」
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