その翡翠き彷徨い【第17話 聖域の終わり】

七海ポルカ

第1話



 今にして思うと。



 自分の少年時代の記憶の劣化には非常に大きな波があった。

 例えばこの竜紋の国に至る前、本当の故郷辺境ヴィノでの記憶はすでにその欠片さえ見当たらない。

 母、父、沢山いたはずの兄弟たち。

 ……皆自分の中から消えてしまった。



 記憶の始まりはいつもサンゴール城からだ。 

 あの日あのサンゴール王宮の礼拝堂で初めてあの人から一瞥を与えられた、その瞬間から始まる。

 それから少しの間――きっとひどく煩わしく思われながらも、人の深い思慮など何も知らずその側で過ごし、あの鮮烈な魂を傍らに感じられた日々の記憶は、昨日のことのように思い出される。

 しかしその後、城を出て一時ラキアの修道院で暮らした時の記憶は、またひどく傷んでいてよく思い出すことは出来なかった。


 そしてグインエル王の死をきっかけに王宮に戻り、再び魔術というものがあの人へと道を繋いでくれると記憶はまた鮮やかさを取り戻した。


 あの人の眼差し、声、一瞬の仕草。

 言った言葉の一つ一つさえ全て思い出せる気がする。

 そして……自分の少年時代で最も記憶が傷んでいる時期は、そのあとに待ち構えていた。



 天空にサンゴール王城を見上げて、日々を暮らすラキアでの印象薄い日々など、まだ小さな出来事だった。


 昔から自分にとって都合の悪い記憶は、すぐに忘れる性格だったと言えるのか、この時期に覚えているのは、一人過ごした王宮書庫室の内装と窓辺から見下ろす夕暮れ、古い本の匂い、それを捲るときのあの慎重な指の感触だけだった。

 とにかくあの巨大な石の城の中ですることも無く、ただひたすらに本や文献を読み漁る日々だったと言えるだろう。

 当時は怠惰に時間を貪っているだけだと思っていたこの時期のことが、しかし後に魔術師としての基盤になるべき、膨大な知識だけは増やし、年齢にそぐわぬ博識と誉められることになるのだから、人生はどこがどう繋がっているかは分からないものである。


 ……しかし一つだけ確かなことは、自分の人生とあの人の人生は最初から、ほんの少しでも繋がる可能性など無いものだったということだろう。


 それを最初にこの身に知らしめなかったのが、後々自分が運命の女神に不信を抱き続けるきっかけになるのだが……。



 次に記憶に色を取り戻すまで、その後三年の月日がかかった。



 一冊本を読み終えたら十年の年月が流れていて――過去の自分の過ちも言動も、全て時が優しく劣化してくれればいいのにと願っていた。

 だがふと意識を戻すと、窓からはようやく夕暮れの光が差し込み、そのやんわりとした時間の中、幾度立ち尽くしただろう。


 長すぎる夜、長すぎる朝……、それなのにその三年間のことは知識以外何も覚えていない。


 自分の記憶の鍵がどこにあるのかはもう分かっていた。

 価値が無かったから手放したのだ。

 自分の記憶が色鮮やかな時、それは側にあの人が存在する時。

 そして記憶が色褪せる時は、あの人が遠ざかった時なのだということを。



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