第8話 歴史を知る

夕暮れの校舎は静かだった。

生徒たちの賑やかな声はすでに遠ざかり、部活動の掛け声すら、校庭の端にかすかに残るだけ。歴史研究部の部室には、私だけの時間が流れていた。


暗い部屋の中で、机の上に広げているのは、鎌倉時代の公家日記の写本。墨が薄れ、紙の端は茶色く焼けている。けれどその筆跡ははっきりとしていて、くずし字も丁寧。文字の癖から、きっと几帳面な書き手だったのだろう。読み解くのに手間取るようなことはない。


六波羅探題ろくはらたんだいより……右大臣家への書状。日付は建治元年……」


小声で読み上げながら、内容を頭に入れていく。たとえ意味のない形式的な文でも、その時代の空気が息づいていて、読むたびに、胸の奥がじんわりと熱を持つ。


そして、職業柄、こういうことを頭に入れておくことに損はない。私が普段付き合う神や妖は、歴史そのものとさえ言えるほどの存在ばかりなのだから。


くずし字で書かれた文をすらすら読める女子高生なんて、きっとこの世にひとりだけだと、自分でも思う。けれど、それが自分にとっての普通だった。

私にとって、今の方が、むしろ異物みたいに感じられる。


引き戸が開く音がして、私は顔を上げた。制服姿のひかりが、少し乱れた髪をかき上げながら入ってくる。


「また古い本、読んでるの?」

「あ、うん……ちょっと鎌倉時代の記録を」

「また~? ほんと変わってるね、おくうって」


そう言って彼女は机の端に腰を下ろした。


ひかりはいつもざっくばらんで、言葉に飾り気がない。でも、その居心地がいい。


私は、相手の顔色をうかがって話すのが苦手だから、こうしてまっすぐに接してくれると、少しだけ楽になれる。


「なに読んでるの?」

「えっと……建治元年、一二八五年の記録。ちょうど霜月騒動の頃……」

「しもつき? なにそれ、事件?」

「うん。北条時宗が亡くなって、後継を巡って……政争が激しくなった時期」

「……北条時宗って、元寇の時の執権だっけ?」


ひかりが笑いながら呟く。


私は苦笑して、日記のページをそっと閉じた。


彼女の言葉にはからかいの響きがない。あるのは、純粋な驚きと、少しの興味なのだと思う。


「あ、そうだ」


ひかりは鞄から紙袋を取り出して、私の前に差し出した。


「おくうへの、今日の差し入れ。なんか甘いの食べたくて、つい買っちゃった」

「……ありがと。私、甘いの好き」


その言葉に、ひかりは嬉しそうに笑った。飾らない笑顔。それが、なぜか心に残った。


静かな部室の中で、私はふと、考え事をしていた。書物を開いても、語られない歴史。誰の記憶にも残らなかった日々。私自身が、そういう存在だったのかもしれない。けれど、今はこうして誰かと時間を過ごしている。それが、どんなにか尊いことか。たとえ自分が、過去の亡霊のような存在でも、今、こうしてここにいることに意味がある。そう思えた。


「でもさ……なんでそんなに歴史が好きなの?」


ひかりがふと、気軽に話しかけてきた。これまであまり深くは聞かれなかったこと。ひかりが興味を持っているのか、それとも単に私のことを知りたくなったのか、そんなことが頭をよぎる。


「うーん、なんでだろうね……昔から、何かに惹かれるような気がして」


私は少し考えてから、自分でも曖昧なような気がしつつ答える。


「もしかしたら、歴史には『今』とつながっている感じがするからかもしれない」

「つながってる?」

「うん。過去の出来事が、今に影響を与えてるというか……だから、歴史を知ることで、今の自分も少し分かる気がする」


ひかりは静かにうなずき、少しだけ黙ってから言った。


「それ、なんかカッコいいね」


その言葉が、思いがけず嬉しくて、私は笑った。


「ありがとう。そう言われると、なんか、照れる」

「ふふ、でもわかるよ」


ひかりの言葉に、ふっと心が軽くなる。こうして自分の気持ちを話せることが、こんなに心地よく感じるなんて。


再び、静かな時間が流れる。


外の空はすっかり暗くなり、校舎の灯りがぼんやりと部室の窓を照らしていた。夕方の忙しさから、少しずつ日が沈んでいくように、私の心も静かに落ち着いていく。



★★★★★★★★★★



部屋の明かりを消して、ベッドに仰向けになる。

カーテンの隙間から、夜景の光が天井にぼんやりと滲んでいる。その明滅を眺めながら、私は今日のことを思い返していた。


稽古中、どうしてだか、おくうのことが気になってしかたなかった。

竹刀を握る手にも力が入らず、動きのひとつひとつがどこか宙ぶらりんで。気が散ってる、と言われても言い返せなかった。だから、少し早めに切り上げた。


先輩に頭を下げて道場をあとにし、制服に着替えて、気づけば、私はおくうの部室の前に立っていた。理由なんて、たぶんあってないようなものだった。


話したいとか、知りたいとか、そういう気持ちも確かにあった。でも本当は、ただ少しでもふたりきりでいたかったのかもしれない。


ドアをノックして、そっと開けたとき、おくうは何かを読んでいた。


机の上に積みあがっているのは古びた分厚い本に、くたびれた和綴じの古文書。ページの端が少し黄ばんでいて、難しそうな文字がびっしりと並んでいた。


それを普通に読んでいるのが、ちょっと信じられなかった。ああ、だからこの子、古典と歴史が得意なんだ、って妙に納得した。


部室の空気は静かで、乾いた古紙の匂いに満たされていた。窓から入る春の風がカーテンをふわりと揺らしていて、そのゆらめきと、紙をめくる小さな音だけが聞こえた。


おくうは、ほんの少し驚いたような顔をして、「どうしたの?」と、優しく声をかけてくれた。柔らかくて、落ち着いた、いつもの話し方だった。


他愛もない会話を経て、私はふと聞いた。


「でもさ……なんでそんなに歴史が好きなの?」


おくうは、少しだけ考えてから答えてくれた。


「うーん、なんでだろうね……昔から、何かに惹かれるような気がして。もしかしたら、歴史には『今』とつながっている感じがするからかもしれない」

「つながってる?」

「うん。過去の出来事が、今に影響を与えてるというか……だから、歴史を知ることで、今の自分も少し分かる気がする」


その言葉の全部を理解できたわけじゃないけど、そう言うおくうの目が真剣で、それが心に残った。


「それ、なんかカッコいいね」


そう言ったら、おくうは少し驚いたように目を丸くして、それから、ふっと笑った。

その笑顔を見た瞬間、目が吸い寄せられた。


左目の端に、小さな泣きぼくろ。何も言わなければ大人っぽくて、少し色っぽさもあるのに、笑うと一気に年相応の女の子になる。


そのギャップが、なんだか胸に残った。きれいで、でもかわいくて、目が離せなくて。


あの子の笑顔と、カーテンの揺れる音。それらが、ずっと胸の奥に残っている。


おくうのことを、もっと知りたい。でも、それだけじゃない。知ってどうしたいのか、その答えはまだ、うまく言えない。


それでも、今日、部室に行ったことは間違いじゃなかったと思う。近づきたいと思った。それは、きっと、本音。


目を閉じる。夜の静けさの中、おくうの顔が、まぶたの裏にふわりと浮かんだ。

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