第7話 火伏の神

夜が更け、港区の街には灯りがぽつぽつと残るのみ。

高層ビルの合間から見える星々は、まるで遠くから私を見守っているような気がした。


港区愛宕山近くの小さな和菓子屋の暖簾をくぐる。

しんとした店内には、夜の静けさが流れ、昼間の賑わいが嘘のように感じられる中、湯気を立てた抹茶の香りと、和菓子の甘さが混じり合い、心を和ませてくれた。


奥の畳間。

制服姿の私を待っていたのは、白髪に深い皺を湛えた初老の男性──火産霊ほむすび先生。先生は、日本神話にも登場する火の神様であり、天狗と深い繋がりを持つお方だ。

この地では火伏ひぶせの神様として信仰され、火事の多かった江戸時代、京都愛宕山より分祀されたことを起源としているが、私にとっては育ての親のような存在であり、いつも静かに微笑み、支えてくれる。


「おかえりなさい、屋烏おくうさん。京都ではご苦労だったね」


先生は、静かな言葉で迎えてくれた。その声に、緊張していた私の心が少しほぐれていく。

京都での任務から戻ったばかりで、少なからず疲れが溜まっていた。心の中で何かが溶けるような感覚を覚え、私は自然とその優しさに甘えてしまう。


正座して、対面する。


「……屋烏、ただいま戻りました、先生。無事、任務を終えてまいりました」


言葉が喉に引っかかりそうになる。

厳格な太郎坊様の元に赴くたび、心臓が締め付けられるような思いがするのだが、そのことを先生に言うべきかどうかはわからない。

ただ、今は、無事に生きて帰って来られたことを伝えることが最も大切だと思った。


「安心したよ。太郎坊さんのもとへ行くのは、何かと気を張るでしょう?」


太郎坊様──主の名を聞くだけで、背筋が伸びるような思いがする。大天狗として、千年もの歴史を背負って生きる太郎坊様は、眷属である私にとって畏怖の対象だ。


「……はい。あの方はお変わりなく、お言葉も厳しくて……でも、昇格を命じられました」


その言葉を口にするのは、正直に言えば少し怖かった。昇格という言葉に込められた意味を、太郎坊様がどう考えているのかは、まだ正確には分からない。


「それは、それは、よかったね」


先生は微笑んで、私の手に湯呑みをそっと渡してくれる。


「木の葉天狗から、烏天狗へ。子どもが一人前になるような、そんな大きな転換でした」

「ふふ、たったの四百年で烏天狗になれるとは、天狗の世では驚くべき速さですよ。よく頑張ったね」


その言葉に、私は思わず照れくさくなった。自分が誇らしいと思ったことはないけれど、先生に褒められるのは、やっぱり嬉しい。


「でも、私……他の天狗たちとは違って、山に住むことも、徒党を組むこともなくて。集団行動、苦手ですから……」

「ええ、知っていますとも。でも、それでよかったね。屋烏さんは屋烏さんのやり方で力を磨いてきた。だからこそ、あの太郎坊さんが認めてくださったのでしょう」


柔らかく、語るようにそう言って、先生は私の湯呑みに静かにお茶を注ぎ足してくれた。

私は、その湯呑みを見つめながら、しばし沈黙する。湯気の向こうに、自分の顔がぼんやりと映る。

私が、私であること。そのままで認められたという実感が、胸の奥に静かに灯っていく。


「そうそう……」


先生がふと思い出したように、湯呑みを置いた。


「ひとつ、相談があるんだ。ひかりさんのことなんだけれどね」

「……?」


少し身を乗り出す私に、先生は穏やかな声で続けた。


「彼女のバイト代のことだけれど……これからは屋烏さんの経費として支給するのはいかがでしょう?」

「……私の経費で?」


湯呑みを持ったまま、私は思わず訊き返してしまった。


「ええ。彼女は屋烏さんが守るべき存在。ですから、必要な支出は当然、屋烏さんの任務に含まれると私は考えます」

「……分かりました。責任を持って、きちんと面倒を見ます」


そう言って改めて気を引き締めた。ひかりを守るという任務は、ただの言葉ではない。これは、今の私が太郎坊様の眷属として存在する意味そのものだから。


「屋烏さん」


先生が、私の名を呼ぶ。その声音は、いつもより少しだけ静かで、温かい。


「屋烏さんは、他の誰でもない、あなたの道を歩いている。それが、いかに困難の道であってもね。でも、どうか忘れないでください。私は、いつでもあなたの傍にいるよ」

「……はい。ありがとうございます、先生」


私は深く頭を下げた。見えない背中の羽が、微かにふわりと揺れるのを感じながら。

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