【過去編】追憶と星
その道は、日が沈みきってしまうと途端に翳って、向こう側の影を曖昧にする。
その道にかかる橋は、轟々と流る水の上で、不気味なほど静かだった。
日中は人通りのある橋だが、いつも決まって鎮まり返っていて、ただ人の会話を遮るほどの濁流の音が轟いている。
六月某日、日も沈みきって星が輝き出す頃。
古書店の茶けた包装紙に包まれた本を数冊抱えて、葉山は帰路についていた。
学校帰りにふと思いついて寄ってみた古書店だったが、その道のりは案外長く、家とは反対方向に来てしまった。
「ん、あれは…」
橋に差し掛かった時、欄干に頬杖をつく黒い影が、葉山の目に映った。
あの細いシルエットを、葉山は知っている。
「尾崎か。何をしてるんだ」
声に振り向いた彼は、葉山もよく知る、クラスの人気者の尾崎綾瀬であった。
彼の周りは常に人で取り巻かれていて、話しかけるのも困難なほどだ。クラスの者や同級の者、さらには教師までも取り込むような華を持っている。
外を歩けば芸者の一人や二人は簡単に寄ってくるような甘ったるいマスクであるから、きっと口説き文句が上手くて、女にだらしなくて、学生の道を外れた遊びに呆けている。
葉山は彼をそんな風に思っていた。それゆえに、彼が一人で、夜に、こんなところにいることを不思議に思った。
「や。君は…同じクラスの、葉山実弘くんだ」
パッと顔を綻ばせた綾瀬は、ひらっと片手を上げて葉山に挨拶した。相変わらず、何を考えているか分からない、万人に共通して見せる尾崎綾瀬の笑顔がそこにあった。
「こんなところで会うとは、偶然もあったもんだな。君、ここの道を通って帰るのかい」
「いや。普段は通らない」
「へぇ。じゃあ寄り道だ。けしからんね、優等生くんともあろうものが」
そう言って微笑を湛える綾瀬に、葉山は自分の抱える本たちを見せつけるようにして言った。
「俺は書店に寄っていただけだ。…お前は」
「…気になる?」
まだ日が沈んで間もない時間だというのに、葉山をじっと見つめる綾瀬の瞳は、深い夜を宿すようだった。黒い瞳を細めて、口角を上げて、深淵へ誘うかのように囁いた綾瀬に、葉山は底知れない『深さ』を直感した。
「…優等生くん。君はなぜ俺に話しかけたんだい。学校で喋るわけではなし、君と俺の間には特別これと言った関係はないんだ。見かけたとて見ぬふりすれば済む話…なのにわざわざ話しかけたのはどうして?」
「…声をかけるのに理由が必要なのか」
「そりゃあそうだろう。用もない相手に話しかける意味はなんだい」
「…そうだろうか」
理由なんぞなくても、人に話しかけることは、少なからずあることなのではないんだろうか。
昔、地元でよく世話をしていた近所の少女も、隣の家の老婆も、よく葉山に話しかけた。けれどそのどれもが明確な理由をもって紡いだ会話だったかと言われたらそうでもないように思える。ただ話しかけてみただけ、ただそこにいたから話しかけただけ、そう言われた記憶がある。
「学校での君はむしろ、俺を避けているように見えるもんだがね。本当は仲良くなりたかったとか?」
「…違う」
「そう?じゃあ何だい、優等生くんは実は他人を気に掛ける性分もお持ちで?」
「違う」
葉山の返答に、綾瀬は黙り込んだ。いつも微笑んでいる彼が、葉山を見定めるようにじっと見ている。葉山は彼の真顔を、この時初めて見た。
「理由…」
葉山にも特別これと言った理由はなかった。
ただ、『人気者の尾崎綾瀬』が夜に一人で橋に佇んでいる光景が不思議だったから、それだけである。
しかし、何をしていたんだろう。いつも様々な人間に囲まれている男は普段何を考えているんだろう。
そんな疑問は、ないと言ったら嘘になるのだが。
「学校が終わって、もう随分経つ。こんなところで何に油を売っているのかと思ったまでだ」
ビュゥ、と湿った風が吹く。
彼の口が「あぁ、そう」と動いたように見えたけれども、風の音が鼓膜いっぱいを占めてしまって、事実は分からない。
夕方に学校が終わってからもうかれこれ三時間、四時間は経つ今、橋の欄干で荒ぶる川を眺める彼の横顔は、何も読み取らせてくれなかった。
「金魚をね、見ていたんだよ」
「金魚?」
「あぁ。金魚と、その糞を」
「金魚なんてここには…」
葉山も彼と同じように、欄干に手をついて周りを眺めてみた。けれども、もちろん川に金魚は泳がない。言葉の真意が読めず、綾瀬の顔をチラと覗いてみれば、彼の視線は川の水面ではなく、水辺を歩く親子へ向けられていた。
母親の後ろを、道草を手に着いて歩く幼い子供。二人ともよく笑っている。
「金魚って、あの親子のことか」
「…若い母親を、一生懸命追いかけて、くっついて歩いているんだ。あの坊や。金魚の糞みたいに」
「お前、もう少し別の例えはなかったのか」
「…さぁ。知らないな」
親子を見つめる綾瀬の表情は、まさに虚無であった。
理解ができない、そんな風にも読める。
「母親の背中を追う子供は、いつだって幸福を滲ませている。なぁ、葉山くん」
親子に向けられていた彼の視線はくるりと回って葉山を捉え、深淵へ誘う。
「母親とは、そんなにいいものかい」
風で靡く長髪が顔にかかって、緩んだ口角が未知を問うた。
「…母親とは、甲乙をつける存在ではない」
「はは、相変わらず真面目だな、君は。じゃあ問いを変えよう。君は、母親が好きかい」
「…好きだが」
「それはどうして?」
「それは……。なぜ、だろうな」
自分がなぜ母を愛するか、家族を愛するか。そんなことを考えたことはなかった。理由を問われたことは、今までに一度もない。なぜと言われると、何も思いつかない。自分が、母を愛する理由。
「無償の愛、とでも言うかい」
「無償…。いや、それは違う。言わない」
「おや、違うのか」
拍子抜けしたような綾瀬の声に、葉山は続けて言う。
「母親の愛には、報いなければならない。そのために、孝行という言葉がある。愛は、無償ではない」
「……そう」
母の優しさには、報いなければならない。恩を返さなければならない。
そのためにも立派な大人になるのだと、葉山は父親に言われ続けてきた。
「葉山くん。…俺はね、母親というものを知らないんだ」
瞬きを数回して、彼は視線を宙に移す。空を見上げた彼の瞳には、星が映っているだろうか。
「顔も名前も、どんな人間だったのかも、何を思って俺を産んだのかも。全て知らない。……ただそれでも、一つだけ知っているんだ。…俺の母さんは、どうも愛に飢えていたらしい」
「愛に」
「母さんの日記を見つけてね。医学にしか興味のない父さんの隣で寂しくなって、他の男に目移りしたんだとさ」
「それで、その男のところへ?」
「いいや。ここからは俺の憶測だがね。…きっと殺されたんだ。医学ってのはどうとでも使える強い武器だから、隠蔽はさぞ簡単にできたろうね」
綾瀬は淡々と話した。声色一つ変えず、見えているのかも分からない星をなぞって。
「恐ろしいかい」
彼は煽るように言った。こちらに望む言葉があるみたいに。
けれど、葉山は何も答えなかった。相手の身内の死に、自分が言えることはないと思った。驚嘆も恐怖も、自分が口にするには、何か、綾瀬の雰囲気が、違う。
「……。……名家名家って、どいつもこいつも持ち上げて、崇めるがね。尾崎の実態は、こうなのさ」
「なぜその話を、俺に?」
「……いいや。なんでも、なんでもなかったんだ。忘れてくれ」
また、風が吹く。深淵を覗かせた彼の表情は、雲が被さったみたいに元通りになって、また最初の笑顔に戻った。
「黄色いお月様だ。優等生くんはお家に帰らなくていいのかい。家の人が心配するよ」
「家には一人だ。上京して来た身の上でな」
「へぇ、驚いた。身なりがいいから、てっきり女中がうじゃうじゃいるような邸宅に住んでいるもんだとばかり思っていたよ。しかし、そうか、一人か。そりゃ気楽でいいな」
帰れ。そう言われている。葉山はそう感じた。
しかし、足を止めたまま、じっと彼を見つめてみる。そうしていれば、徐々に彼の眉が下がっていくのが分かった。
「どうして帰らないんだい。ひょっとして、優等生くんは夜遊びを嗜まれるのかな」
予測できなかった葉山の行動に、困ったような表情。きっと今、こちらの目的を探っている。
「お前こそ、いつまでここにいるつもりだ」
「いつまで?ずっとさ」
綾瀬は葉山の肩に手を置いて体を回し、葉山を帰る道の方向へ向かせた。
「ほら。俺が見送ってあげるから、君は帰るといい。…学校では話さないから分からなかったが、案外君は面白いのだね。今度は学校で話せることを願っているよ」
「面白い?」
「じゃあね、優等生の葉山くん」
綾瀬は葉山の言葉を遮るように背中を押し、葉山に別れを告げた。
橋から手を振る彼の笑顔に何も言えないまま、葉山はその橋を後にした。
「葉山くん。君は、俺をちゃんと見てくれるのかな」
一人橋に残った綾瀬は、葉山の背が消えた道に尋ねた。
自分を求め、自分に話しかけてくる者は大抵、綾瀬自身よりも、尾崎の姓と関わりを持ちたがる者ばかりであった。名家の息子と関わりのある自分、になりたい。そんな欲望が、どいつもこいつも透けて見える。
「試しに尾崎の身内話をしてみたけれど、彼は何も言わなかった」
葉山実弘。同じクラスの、優等生。休み時間はいつも一人で本を読んでいるような、真面目な生徒。
「尾崎は、彼の前では無意味になれるだろうか」
もし、彼が名家の姓なんてものに興味がないのなら。
もし、本当に、ただの『綾瀬』という人間に話しかけてくれていたのなら。
「…意地悪、してしまったかも」
明日からは、彼をちゃんと、見てみよう。葉山という男を、もっとよく、知ってみたい。
ただ藍が広がるだけだった空。今は小さく輝く星が見えた気がした。
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