二人の忘れ物
チリリリリンチリリリリン
「おっと。これはまた… 」
ある日の昼下がり、廊下の壁にかかるデルビルの電話機が音を立てた。皺を伸ばしていたシャツをひっくり返し、炭火のアイロンを置いて廊下に出る。この昼休憩に値する時間に来る電話はもういつものことだ。今日はなんだろう、と思いながら受話器を耳にあて、送話器に向かう。はい葉山です、と応答すれば、受話器の向こうから泣きつくような親友の声が聞こえた。
「すまない綾瀬。家に財布を忘れてしまって… 悪いが届けにきてほしい。恐らく俺の部屋の棚のところにあると思うんだが… 」
「また忘れ物かい葉山。いつも忘れ物はないか確認してから仕事に行けと言っているのに」
「それは… 。きょ、今日は急いで出てしまったんだ!今朝はまだお前も寝ていたし、起こさないようにしようってことばかり考えてしまって」
「はは、別に起こしたっていいのに。そろそろ電話のかけ過ぎで交換手にも番号覚えられちまうんじゃないか?」
「うう… 」
そんな会話もほどほどに、綾瀬と呼ばれた男は電話を切って親友の部屋に向かい、棚の上にポツンと置き去りにされていた革の財布を着物の懐に入れた。
彼の職場はこの家からさほど遠くはない。昼休憩が終わってしまう前に、と綾瀬は早足で彼の待つ銀座を目指した。
大学時代からの親友である葉山は、現在銀座で栄える百貨店で外商として働いている。
医者の名家に生まれ、後継を巡って家族と対立し家出をした綾瀬は、そんな彼に救われた身で、今は彼の家に居候しながら日中の家事をこなしていた。
葉山は普段はしっかりしていてなんでもできそうな風体で、事実学生時代は模範生徒だった。しかしそんなのは表面上だけで、中身は物忘れの多い、少し抜けのある男であること綾瀬は知っている。それでいて格好つけたがる、見栄っ張りだということも。
「綾瀬!ありがとう。毎度わざわざ悪いな」
葉山は百貨店の前に佇む街灯に背中を預けて、綾瀬の姿を待っていた。
「構わないさ。おかげさまで外に出る機会も増えることだし」
「助かったよ。他を忘れるならなんとかなりそうなものだが、財布はどうにも困る」
「金がないと始まらないからなぁ。昼は食えそうかい?」
「あぁ、なんとか」
「それはよかった。それじゃあ、気張って午後もお勤めしてきてくれ」
「あぁ!それじゃ」
財布を手に笑う姿に安堵して、職場に戻って行く彼の後ろ姿を見送ろうとすると、あ、忘れてた!と声を上げた葉山がまたこちらへ戻ってきた。
「おいおい、今度はなんだい」
「行ってきます、綾瀬」
「…… え?」
突如投げかけられた言葉に戸惑い呆然とする綾瀬の肩を叩いて、葉山は続けて言う。
「朝、言えなかったから」
「はは。そういうことか。別にいいさ、それくらい」
「いいや、これは大事なことなんだ。どこかへ行っても、必ずここに戻ってくるっていう約束」
葉山は腕に掛けていた薄茶のスーツのジャケットに袖を通して、緩んだ赤いネクタイを締め直した。
「何かと最近は物騒だからな。ほら、この前も日本橋で百貨店が燃えただろう」
「あぁ… あったなぁ、そんなこと」
「何が起きるか分からない世の中だが、俺は必ず家に帰るから」
「…… 待ってるよ。ちょうどさっきまで君のシャツにアイロンをかけていたんだ」
「そうだったのか!ありがとう」
「行ってらっしゃい、葉山。早い帰りを待ってる」
「あぁ。綾瀬も気をつけて帰れよ。まだお前は探されている身なんだから、追っ手に気をつけて。無事に家に着くことを祈ってる」
「まったく、大袈裟だな。葉山は」
綾瀬は葉山の言葉に笑って返した。しかし、実際は綾瀬も少し怖いのだ。大学時代に一度、実家の人間に葉山と共に暮らす家を特定されて、乗り込まれたことがあった。そして無理やり家に連れ戻されて、医学書まみれの部屋に監禁されかけて、大学も辞めさせられそうになって… 。あの日のことを思い出すと、綾瀬は今でも手が震えた。
綾瀬の中には、どうしても医者になりたくはないという明確な意思があるのだ。それは子供の頃見た震災の被害者の姿を今でも覚えているからだった。あの時、自分には人の命を扱うなんて絶対にできないと悟った。
爵位のある家に生まれた。偉大なる父の下で金に困ったことはない。家も大きく女中が何人もいて、身の回りの世話はなんでもしてくれた。それでも、綾瀬はそんな生活より、親友と二人で静かに、ひっそり暮らす生活を選んだ。綾瀬は葉山と暮らす今が好きなのだ。
「それじゃあ、また夜に、家で」
「あぁ」
そう言って、葉山は職場の百貨店へ戻っていった。銀座の午後に取り残された綾瀬は、一人晴れ渡る空を見上げる。今日は少しだけ風が暖かい。春が生まれて、冬が去るのだ。
「夕食の材料でも買って帰ろうか。…… あ」
懐に手を入れても、指を掠める物はない。
「…… 。財布忘れた… 」
生まれたての春の風に、綾瀬の小さな苦笑が咲いた。
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