第3話 出すぎた杭の末路には

 それから――予想の通り後宮へ入れられた精華には、衣類を洗濯する下働きが命じられた。


 広大な皇城内には、なんと整備された川が流れている。そこから水を引いた洗い場で、山のような洗濯物をひたすら洗い続けるのだ。ましてや、今は冬。かじかむ指にはあっと息を吹きかけて、精華はたったの数日で赤くひび割れた指先を見た。


 ――陽清は泣き虫だから、今ごろいじめられているかもしれない。早く迎えに行ってあげないと……!


 精華はここへ来てからずっと、洗濯場の上役である中年の宮女に余裕のありそうなときを探していた。余裕のないところで余計なことを聞いても怒らせるだけで、まともな答えは得られないだろう。


 観察を続けて数日。精華はようやく、上役に最も余裕があるときを突き止めた。作業終わりの報告を待つ時間のうち、早めのころは人もまばらであるらしい。


 以前よりさらに痩せた細腕で、猛然と洗い物をこなしてゆく。精華は全ての作業を終えると、薄い布袋でしかないはきものから足裏に伝わる痛みをものともせずに、上役のもとへと駆け出した。


 座って白湯を飲む上役にひざまずいて報告すると、精華は次の人が来るまでにと、急ぎ問いを口にした。


「この後宮へ、新しい宦官が来たという噂をご存じではありませんか? 名は文陽清、まだ九歳の子供なのですが……」


「宦官だって? 知らないねぇ。この皇城で働く奴婢は、三万人をこすんだよ。それに宦官どもは元の名を奪われてるヤツも多いから、名で聞きこみしてもムダじゃあないかね」


 呆れたように首を振る上役を見て、精華は愕然とした。


「さ、三万!? しかも名が変わっているなんて、捜し歩いたらどれほどかかるか……」


「何言ってんだい、お前は奴婢なんだ。人捜しなんかしてるヒマあるわけないだろう。それにこの後宮は、いくつもの区画に分かれてるんだ。あたしら下働きに、区画を渡る権限はないよ」


「そんな……」


「どうしても探しに行きたいなら、出世して侍女や女官になって、お使いに行く名目を手に入れるんだね。ま、元罪人の下働きから出世するヤツなんて、滅多にいないけどねぇ」


 そうこうするうちに報告へ戻って来た宮女たちが、固まったままの精華をつま先で小突いた。


「ちょっと、ジャマだよ!」


 精華は小声で謝ると、のろのろと立ち上がる。


 ――だからって、呆けているのは時間の無駄だ。ならば、まずは女官を目指そう!


 律令の知識がある女は国中探してもごく限られているはずだから、上手く売り込むことができれば女官への抜擢も難しい話ではないはずだ。精華はぐっと顔を上げると、粗末な夕飯が食べつくされてしまわないうちに、宿舎の食堂へと向かった。




 弟は、きっと生きている――そう信じて人一倍働いていた、ある日。精華が乾いた洗濯物を山のように籠に積んで戻ってくると、上役の怒号が響き渡った。驚いて屋内の作業場をのぞき込めば、色鮮やかな衣の山を前にして数人の宮女が青ざめている。


馮司言ふうしげん陳典正ちんてんせいは同期の入宮で、ずっと犬猿の仲なんだ。それをよりによって混ぜちまうなんて……一枚でも間違えたら承知しないからね!」


 そう言いつつ、最もうろたえているのは上役だった。問題が起こったときに代表して責任を取らされるのは、結局上役なのだろう。


『司言』は女官六尚を統括する『尚宮局』の役職で、『典正』は女官六尚から外れて後宮の風紀を取り締まる『宮正司』の女官の役職だ。どうやらその二人から受け取った衣類を、うっかり洗濯中に混ぜてしまったらしい。


「でもこんなにたくさん、どれがどなたの衣だったかなんて、覚えるのは無理です……!」


 泣きながら衣を広げていた女は、そう言って首を横に振った。


 この国の律令ほうりつは、『律』と『令』に分けられる。このうちの『律』は法に違反した場合の罰則を定める『刑法』で、『令』は礼典や行政に関する『法令』を定めるものだ。


 そんな律令のうち、人々が着る衣は『衣服令』によって、身分や立場により細かく定められている。正六品である司言と正七品の典正では、衣服の規定が違うのだ。


 精華が台に近づきながら説明すると、上役は苛立たしげに言った。


「そのぐらい、あたしだって知ってんだよ。でも六品の司言と七品の典正じゃ、官服は同じ『青』じゃないか!」


「官服の違いは色だけではありません。位に応じて『補子ほし』の刺繍が細かく違うのです」


 官僚、女官、宦官たちが着る官服は、品位によって緋・青・緑の三色が定められているが、それだけではない。さらに補子という四角い大きな刺繍布が、官服に縫い付けられているのだ。


「刺繍って……これかな。えっと、白い鳥?」


 宮女の一人が広げた服を身て、精華はうなずいた。


「それは鷺鷥さぎだから、六品ですね」


「こっちもあったよ! ……でもやっぱり鳥?」


「そちらは鸂鶒けいせき。七品ですね」


「これで官服は分かったね! でも、それ以外はどうやって……」


「その官服の、裄丈ゆきたけを調べてください。そうすれば持ち主の体格が分かるので、他の衣類も見分けがつくかもしれません」


「あ、ああ、分かった!」




 後日、上役から上機嫌で、お届けした衣類に間違いがなかったと伝えられた。こういったことが二度め、三度めにもなると、その堅実な仕事ぶりも相まって、精華は上役から目をかけられ始めた。


 ――この調子でいけば、近いうちに女官の耳に入るはず!


 精華はさらに、与えられた仕事に誠実に取り組んでいた――ところが。


「あんた、またでしゃばって、命じられてもないことしたんだって? あんたが上に媚び売るためにやりすぎるせいで、あたしらが怠けてるって怒られるんだよ!」


 本日最後の洗い物を籠に積んだところで、数名の宮女たちが精華を取り囲んだ。先日この宮女たちは、職務怠慢の罰で上役にむちで打たれた。そのとき『精華を見習え!』と名指しで引き合いに出されてしまったから、逆恨みされたのだろう。


 ――なによ、人のせいにして。あなたたちがいつもお喋りばかりして手を止めているから、そこを見咎められただけじゃない……!


 だがすんでのところで、精華は口をつぐんだ。多勢に無勢で正論を言ったところで、余計に酷くやられるだけだ。


 そのとき……先日洗濯物の仕分けで助けた宮女たちが気まずそうに目線を逸らし、足早に通り過ぎてゆくのが見えた。この様子では、誰も庇ってくれそうにない。厳しい下働きの世界では、皆、自分を守ることで精一杯だから――。


「あんた、自分ばっかり真面目ないい子ぶって上役にひいきされちゃって、ホントうざったいんだよねぇ。そんなに仕事したいなら、あたしらのぶんもやらせてやるよ」


 そう言って宮女たちは精華の手から洗い終えた衣類の籠を奪うと、まだ洗っていない汚れ物の籠を押し付けた。


「返してください。上役に全て伝えますから、こんなことをしても無意味です」


「バカだな、こっちの方がずっといっぱい多いんだ。これまでは逆にあんたに洗い終えた物を奪われてたんだって言って、洗濯場のみんなで泣きながら訴えてやる。あたしら全員とあんた一人、上役はどっちを信じると思うかい?」


 先ほどから代表して喋っている女は、これまでずっと洗濯場を牛耳る存在だったらしい。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる集団を、精華は精一杯に睨み返した。


 一人ずつなら信用で負ける気はしない。だが全員対一人では、さすがに証拠もなしでは信用してもらえそうにない。


 ――悔しいけれど、嘘つきだと思われてこれまで築いてきた信用を失うぐらいなら、今は洗い上げよう……。


 精華が黙って汚れ物の籠を抱え上げると、女たちは笑いながら去って行った。




 凍てつくような寒空の下、屋外の洗い場には雪が降り積もっている。あかぎれだらけの手で絹の内衣したぎを優しく振り洗いしながら、精華は必死に考えた。


 何も対策しなければ、また同じことをされるはず。だから明日はお仕着せなど特徴のある洗濯物を探して、それを丸ごと自分に任せてもらうよう頼もう。その程度の融通を頼めるぐらいの信用は、上役に築けているはずだ。


 それで今日のような横暴を防げたら充分だし、それでももし交換を強要されたら、洗濯物の特徴を証拠にして上役に理不尽を訴えることができる。


 ――陽清はきっと今ごろ、一人ぼっちで心細いはず。一日も早くあの子を迎えに行くためなら、私は負けない。


 重たい腕でなんとか全て洗い終え、絹衣のための屋内にある陰干し台へとかけてゆく。ようやく全てを干し終えて、精華は重たい脚を引きずりながら干し場の外へ出た。


 降り積もった雪が、夜道を白く染めている。今帰っても、もう夕食は残っていないだろうか。雪を踏みしめ歩くうち、突然、精華の視界に白い光が満ちた。


 ――朝が来たのではない。眼が、おかしい。

 

 そう気づいた、次の瞬間。

 精華は、雪の上に倒れ伏していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る