(16)登山
八月の上旬、一番富士登山がにぎわう時期に、アズサとヨウスケ、二人の父、そしてアヤミが、富士登山の登山口行のバスの出る、吉田の駅に立っていた。ヨウスケと父は、アヤミとは初対面だった。ここでもアヤミの方から挨拶する。
「はじめまして。勝部あやみと申します。アズサさんとは、今年、お仕事で大変お世話になっておりまして、ワタシの仕事の取材の一環で、図々しいお願いをして申し訳ありません」
いつもながらのきちんとした挨拶である。アズサ一家を代表して、父が答える。
「あ、いや、こちらこそアズサがホンマにお世話になっていると聞いておりまして、ありがとうございます。勝部先生のような素晴らしい方と一緒に富士山に登れるとは、ホンマに光栄です。よろしうお願いします」
挨拶の相手は自分の娘とほぼ同い年の女性なのだが、父はだいぶ緊張しているようだった。アズサが忘れずに、弟のヨウスケを紹介する。
「弟のヨウスケです。私の出たのと同じ大学に行っていて、今、三年です。勝部先生と一緒に富士山に登れると聞いて、すごく喜んでいました」
アヤミがそれを聞いて、ヨウスケに挨拶する。いつものにこやかな表情だ。
「ヨウスケさん、よろしうお願いします。ウチも、アズサちゃんの弟さんと富士山登れるん、すごい楽しみなんよ」
ヨウスケは、姉とほぼ同じ若い女性から丁寧にあいさつされて、緊張と嬉しさが入り混じったような顔をする。
「あ、はい、カワズルヨウスケです。よろしくお願いします」
やはり緊張と嬉しさが入り混じっているのか、簡単な挨拶になった。ここからは父親が行程を説明する。
「私たちみんな初登山なので、ゆっくり行きます。勝部先生にはお知らせしたように、今日これから五合目登山口へ行って、そこから登る。七合目の山小屋を予約してあるんで、今日はそこに泊まります。明日は、朝五時ごろ出発して、昼過ぎに頂上の予定。下山は午後五時ぐらいまでには五合目に戻って、そこから吉田に戻って一泊します」
父の説明を三人はしっかり聞いているようだった。アヤミが答える。
「はい、ホンマによろしうお願いします。それから、『勝部先生』、やなくて、『アヤミさん』でお願いできますか?」
アズサに会った時と同じで、アヤミは「先生」と呼ばれるのは好きではないようだった。
この頃は、富士登山は世界的に人気になっていた。登山シーズンの七月と八月は、連日登山客が登山道に押しかけ、ほとんど「渋滞」を起こすようだった。夜間など、登山道を歩く登山者の持つ明かりが、ふもとから頂上までつながって、吉田の町からはっきり見えるほどだ。
深夜、五合目から登って、朝頂上に着くという、「弾丸登山」と呼ばれる強行軍をする登山者もいるが、アズサたちは、体力や事故の危険もあるので、順当に、途中の山小屋一泊でゆっくりと登ることにしていた。
アズサたち四人は、昼過ぎから五合目登山口に入り、午後四時前には七合目の山小屋に着いた。富士山は深夜でも登山者が絶えないが、父親から見ると、やはり登山自体は昼間、十分余裕をもって行いたいと考えていた。山小屋は盛況だったが、アズサたちは四人部屋を予約していて、ゆっくり休める予定だった。山小屋で出る簡単な夕食を食べ、部屋に戻る。やはり、アズサとアヤミがよくしゃべり、それに時々父とヨウスケが受け答えする、というような時間が過ぎた。
アヤミと初対面のヨウスケは、少し遠慮していたようだったが、ふと思い出したのか、リュックからポテトチップの袋を取り出した。姉とアヤミに向かって、
「これ見て。少し膨らんどる」
とポテトチップの袋を見せる。確かに地上の店頭で見るよりも、袋が膨らんでいる。アヤミが、
「あ、それ!」
と嬉しそうに言う。
「今ここ、下より気圧が低いから膨らんどるんやろ? やっぱすごいなあ」
アヤミはヨウスケの「実験」を楽しそうに受け取る。
「はい、これ、山頂で開けよう思ってます」
「そか、山頂やともっとパンパンになるし、楽しみ」
アズサは、富士山山頂がふもとより気圧が低いということは知っていたが、お菓子の袋を持ってきて試す、という発想はなかった。
「なんでそんなん知っとんの?」
とヨウスケに聞くと、ヨウスケは、姉に勝ったのが嬉しいような表情を少し見せて、
「常識やん」
と返す。
楽しい時間であったが、翌日に備えて、午後八時前には就寝した。アヤミ、アズサ、父、ヨウスケ、という並びの四本川の字で眠る。ヨウスケにとっては、家族でない若い女性と同じ部屋で眠るという経験は初めてだったので、すこしドキドキしているようにも見えた。
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