第36話 一人で立つ決意と新たな舞台
夢を見ていた気がする。
賑やかで、まぶしくて、誰かの笑い声が絶えない空間。見上げれば照明の光が降り注ぎ、その下で誰かが楽しげに言葉を紡いでいた。
それは、かつて隣にあった“声”の残響だった。
レティシアは静かに目を覚ました。天蓋付きのベッドに差し込む朝の光が、まるで何ひとつ変わらないかのように優しく揺れている。
けれど、それは錯覚だった。すべてが、すっかり変わってしまったのだ。
身体を起こしても、あの気の利いた明るい声はどこにも聞こえない。鏡台の前に座っても、「お嬢様、その寝癖はファンには内緒にしておきましょうね」と笑う声は、もう返ってこない。
あの指輪も、今はただの冷たい装飾品になってしまっていた。
胸の奥に、ぽっかりと冷たい空洞が広がっていく。
レティシアは黙ったまま、机の引き出しから一冊の日記帳を取り出した。それは、エリスとの会話をひとつも忘れまいと、毎日丁寧に書き留めてきた宝物だった。
ふざけた一言も、核心を突く助言も、時には照れながら口にしていた言葉も──すべてが、そこにある。
何度も繰り返し読んできたはずなのに、目を通すたびに胸が締めつけられる。
「私ね、誰もが主役になれる舞台があったらいいなって、ずっと思ってたの」
その言葉が、今もなお、胸の奥に深く響く。
誰もが主役になれる舞台。
それはエリスが心から願っていた景色であり、レティシアにとっては一度も信じたことのなかった夢物語だった。
けれど今、ひとりになって初めて理解した。
彼女は、いつも隣でレティシアの世界を照らしてくれていたのだ。
私は何も持っていなかった。ただ、誰かに否定されるのが怖くて、強がることで存在を保っていただけ。
けれど、もう逃げ込む場所も、言い訳にできるものも残されていない。
静まり返った部屋の中で、レティシアはそっと唇を開き、声にならない声を紡ぐ。
「……エリス」
その名を呼んでも、返事はない。
けれど、鏡に映る自分の瞳が、ほんの少しだけ、以前より真っ直ぐに前を向いている気がした。
泣いている暇なんて、きっとない。
あの人は、あれほどまでに全力で生きて、誰かの背中を押し続けていたのだから。
ならば、私もそうありたい。
誰かの声になりたい。誰かを照らす灯火になりたい。
今度は──この自分の声で。
そう誓った日から、レティシアの行動は明らかに変わった。
彼女がまず取り組んだのは、社会の中に埋もれている「伝えたい想い」をすくい上げることだった。誰もが主役になれる舞台──その理想を、現実の形として世に示すため、レティシアは新たな構想を立ち上げる。
その名も、『光と声の祝祭(フェスティヴァ・ルーメ&ヴォクス)』。
貴族、平民、異民族。立場や生まれに関係なく、情熱と才能を持つすべての人が、自分の表現を自由に披露できる祭典として企画された。
参加の条件は、たった一つ──「他者の声を奪わないこと」。
力や地位で支配するのではなく、互いの違いを尊重し、共に在ることを喜ぶ。その価値観は、かつてエリスが遺した信念と深く繋がっていた。そしてその理念は、次第に人々の心に静かに火を灯していく。
最初に賛同を示したのは、市井の魔導細工師だった。彼は自身が開発した魔導楽器を持ち込み、誰でも簡単に音楽を奏でられる仕組みを披露した。
やがて、語り部や踊り手、流浪の吟遊詩人、伝統楽器の職人たちが集い始める。レティシアでさえ知らなかったような技芸が、静かに、しかし確かに王都へと流れ込んでくる。
一方で、貴族の中からは反発の声も上がった。「身分の線引きを曖昧にするとは、王国の秩序を崩す行為だ」と、強硬に批判する者もいた。
けれどレティシアは、それらすべての非難を受け止めたうえで、毅然としてこう語った。
「声を失った私が、再び語りたいと思えたのは、誰かの声がそばにあったからです。だから今度は、私がその場を用意します」
その真摯な言葉は、王宮の一部にも届くことになる。
ある日レティシアは王宮からの呼び出しを受け、ある静かな謁見の場に通された。そこに現れたのは、かつて王国を陰から支えた元皇太后アマーリエだった。
公の場に姿を見せることの少ないその人は、驚くほど柔らかな表情でレティシアを迎えた。そして、静かに語り出す──自身の過去、胸に秘めてきた思い、そして彼女の活動に寄せる真摯な賛意。
「私も、過去に“声”を持たなかった少女でした」
その第一声に、レティシアはまっすぐ視線を向ける。アマーリエの声は穏やかだったが、その裏に揺るぎない覚悟が滲んでいた。
「皇太子妃として宮廷に上がった頃、私の言葉は軽んじられ、何を言っても『慎ましくあれ』と諭されました」
彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、昔を思い出すように目を伏せる。
「発言ひとつで波紋が広がり、時には侍女にすら見下されることもありました」
小さく、苦笑が漏れる。
「それでも私は、ただ静かに笑ってやり過ごすしかなかった。波風を立てずに“器”であることが、当時の私にできる唯一の自衛だったのです」
そして、ふたたびレティシアを見つめる。その瞳には、過去を乗り越えた者の静かな光が宿っていた。
「だからこそ、あの頃の私に、あなたのような声が届いていたら──どれほど救われたことでしょう」
言葉は、重くも優しく響く。
「あなたの願いは、かつての私にも、きっと届くと信じています」
その言葉は、レティシアの胸に静かに染み渡った。
アマーリエの後援は瞬く間に影響を広げ、王都の文化区画を巻き込んだ一大プロジェクトへと発展していく。
かつて、ひとつの指輪の中で交わされた声が──今、王国全土を巻き込むうねりとなり、静かに、しかし確かに動き出していた。
その中心に立つレティシアは、祭典の準備期間中、まるで舞台監督のように奔走していた。貴族令嬢の肩書きではなく、一人の実行者として。彼女は自ら参加者と向き合い、それぞれの「声」を引き出す役割を引き受けた。
ある者は自分の表現に自信がなく、またある者は過去に否定された経験を引きずっていた。だがレティシアは、どんな声も否定せず、真摯に耳を傾け、時に手を取り、時に背中を押してゆく。
その姿を、レオンは遠くから静かに見守っていた。王国の技術部門と連携し、会場設営や魔導設備の調整、そして警備体制の構築にも抜かりはない。かつてのように言葉を交わす時間は減っていたが、彼の気配は常に彼女のすぐ近くにあった。
一方、クレアは演出補佐として、日々参加者と接しながら奔走していた。気さくな笑顔で緊張をほぐし、必要とあらば厳しい指摘も忘れない。彼女の存在は、レティシアにとって欠かせない柱のひとつとなっていた。
参加者たちは、最初こそ不安や緊張の色を浮かべていたが、次第にレティシアの姿勢に心を打たれ、自分の「声」に自信を持ち始めていった。
ある夜、執務室。
レティシアはふと筆を止め、静かに席を立った。
部屋の隅にある鏡の前に立ち、ぼんやりと自分の姿を見つめる。
「今日は……大変だったわ」
その呟きは、誰に向けたものでもない。ただ、かつての癖のように、何かを報告するかのように口から零れた。
当然、返事はない。鏡に映るのは、自分一人だけ。
レティシアは小さく笑い、首を振った。
「……もう、いないのよね」
視線がそっと机の隅に移る。そこに置かれていたのは、沈黙したままの指輪だった。
彼女はそれを手に取り、胸元にそっと抱きしめる。
(今でも、声が聞こえた気がする。……でも、それはもう、私の中にある)
そう思いながら椅子に戻ると、レティシアは静かに腰を下ろし、窓の外に目を向けた。
夜空にきらめく星々。
その光を見上げながら、彼女は小さく息を吐き出す。
(ひとりでも、きっとやれる)
その祈りにも似た決意は、言葉にならずとも、静かに空へと溶けていった。
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