第35話 涙の終幕、そして始まりへ
朝の光が、そっとカーテンの隙間をすり抜けていた。
神殿の医療室。柔らかな光が白いシーツの上に滲み、そこに眠る少女の輪郭を静かに浮かび上がらせる。
レティシア・アルヴェルは、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
天井が見える。だが、それが自分のいる現実のものであるという実感が、どこか遠い。
視界はぼやけ、耳鳴りがして、まるで深い水の底に沈んでいるようだった。何かが終わって、何かが始まって、それなのに自分はただ空虚な殻のようで……。
しばらくのあいだ、彼女は動かなかった。指先すらぴくりとも動かさず、ただ天井を見つめ続ける。
不意に、傍らで椅子が軋む音がした。
「……お目覚め、ですね」
そっと語りかける声。それは馴染みのあるもので、彼女の中にほんの少しだけ温度が戻る。
レティシアは、顔を横に向けた。椅子に座っていたのは、侍女のクレアだった。彼女の頬はこわばり、目元には眠れていなかったことを示すくまが滲んでいた。
その顔に、レティシアは申し訳なさそうに目を伏せる。けれどクレアはかぶりを振って、微笑もうとした。
だが、その微笑みはすぐに崩れた。逡巡の色がその瞳に揺れ、唇が震える。
「……レティシア様。どうしても……今のうちに、申し上げておきたいことがあるのです」
彼女の声は、まるで胸の奥からしぼり出すように震えていた。
「……実は私、レティシア様の異常を知っていて、気づかないふりをしていました……」
クレアは一度言葉を止め、両手をぎゅっと握りしめた。
それが、どれほど罪悪感と葛藤に満ちた告白であるかは、レティシアにも痛いほど伝わった。
それでもクレアは、逃げずに目を逸らさずに、主人の目を見据えた。
「以前、控室で聞いてしまったんです」
『……ほんと馬鹿。騙されやすくて助かるわ』
「――あの時、もう一人のレティシア様がそう呟いていたのを」
その言葉は、室内の空気すらも凍らせるほど冷たく、鋭かった。
レティシアの瞳が、大きく見開かれる。表情が固まり、呼吸が止まる。
“——騙していた”
心の奥にあった、微かでも確かにあった温もりの記憶に、真っ黒な染みが広がっていく。
信じていた。信じたかった。けれど、それは——。
その衝撃は、言葉では表せないほど深く、静かに、確実に、彼女の心を貫いていった。
喉がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われながら、レティシアは無意識に唇を動かす。
言葉を発しようとした。
——けれど、声は出なかった。
いや、出せなかったのではない。もう彼女の声帯は正常に機能している。エリスとのリンクが断たれたとき、その異常は解消されたはずだった。
なのに、口の中にこみ上げてくるのは、言葉ではなく、ただひたひたと押し寄せる虚しさだけ。
(声が……戻ったのに……)
伝えたい相手は、もうどこにもいない。
彼女の胸の奥で、冷たい現実がじわじわと広がっていく。
言葉はあるのに、語りかける先がない。
感情はあるのに、ぶつける相手が消えてしまった。
矛盾。
ただ生きていることそのものが、もどかしく、切なく、痛かった。
少しでも声を出せば、自分の中に本当に“何もいなくなった”ことが確定してしまいそうで、怖かった。
だからレティシアは、震える唇をそっと閉じ、沈黙を選んだ。
自分自身の声からすら、逃げるように。
そんな彼女の沈黙の中に、静かな気配が差し込んできた。
視線を上げると、そこにはレオンがいた。
彼は壁際に寄りかかりながらも、落ち着かない様子でこちらを見ていた。だが、その眼差しは変わらず穏やかだった。
責めるでも慰めるでもない、ただ彼女の存在そのものを受け入れるような、優しい視線。
レティシアは、震える手で毛布をきゅっと握りしめた。
しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと顔を向け、ためらいがちに唇を開く。
「……ありがとう。貴方が助けてくれたのでしょう?」
その声はかすれていたが、確かに彼に届く、彼女自身の意思を乗せた声だった。
レオンの瞳がわずかに揺れた。驚きが表情に浮かんだが、それもすぐに消え、彼は静かに目を細める。
「……ただ、自分がすべきことをしたまでだ」
そう言ったあと、彼は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。そして、視線を伏せたまま呟くように続ける。
「……正直なことを言えば、エリスが君をどう思っていたのか、俺にももう確信は持てない」
その声音には、複雑な感情が滲んでいた。痛みと後悔と、それでも理解しようとする葛藤のようなもの。
レティシアは静かに目を伏せた。
迷い、戸惑い、けれどやがて、どこか覚悟を決めたように再び言葉を紡ぐ。
「……あのとき、あなたの言葉を信じられなかった。拒絶して、冷たくして……ごめんなさい」
それは飾らない、率直な謝罪だった。
レオンはすぐに首を振る。レティシアの言葉を遮るように、穏やかな声で返す。
「いや、俺のやり方も強引だった。封印したことだって……後悔していないと言えば嘘になる」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちた。
だが、それはもはや気まずさや痛みのためのものではなかった。
むしろ、互いの心が少しずつ近づいていくのを許す、優しい沈黙だった。
「でも、君を守れたことだけは、間違っていなかったと……そう思いたい」
その言葉に、レティシアはそっと頷いた。
「私も……あなたがいてくれて、よかった」
言葉少なながらも、そこには確かな感情が宿っていた。
わずかなやり取りのなかで、ふたりのあいだにあったしこりが少しずつほどけていく。
長く続いた誤解とすれ違いの末に、ようやく交わされた、ささやかであたたかな和解だった。
ふと、レティシアの目が机の上に置かれた小さな物にとまった。
“沈黙した指輪”。
そこにあるのは、もはや魔力も言葉も宿さない、ただの銀の輪。
あの夜、あれほどまでに濃密な存在感を放っていたそれが、今はまるで抜け殻のように、冷たく沈黙していた。
それでも、彼女にはわかっていた。
それが、エリスとの全てだった。
痛みも、夢も、後悔も、希望も、そのすべてが宿っていた証——そして別れの印。
レティシアはそっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、まるで胸の奥の奥に触れたような錯覚を覚えた。
そっと指輪を手に取り、胸元に抱きしめる。
(……ありがとう、エリス)
声は出さず、心の中で囁いたその言葉に、涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
憎しみでも、未練でもない。
ただ、感謝と祈り、そして決別を込めた——ひとつの時代の幕を引く、静かな儀式だった。
窓の外では、朝日が静かに街を照らし始めていた。
茜色の光が石畳に反射し、遠くで鳥のさえずりが微かに響く。
レティシアは、胸元の指輪にそっと手を添えたまま、ゆっくりと顔を上げる。
何かを終えたばかりのはずなのに、胸の奥には、かすかだが確かな温もりがあった。
深く、静かに息を吸い込む。
肺がふくらみ、指先まで新しい空気が満ちていく。
その瞳には、まだ不安も戸惑いも残っていた。
けれど、それ以上に——意志の光が宿っていた。
(エリスがいなくても、私は……私として、生きていく)
決して大きな一歩ではない。
それでも、自分の足で踏み出すための、最初の朝だった。
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