22. ニート兄

 キャッチャーがストレートのサインを出しているのに、ピッチャーが身勝手にフォークを投げたとしたら、ワイルドピッチになるかもしれない。


 三塁から相手ランナーが走ってきて、点を取られるかもしれない。チームは敗北してしまうかもしれない。そうしたら、選手は落胆し観客はいきどおるだろう。


 ようは、サイン通りに投げろっていうことだ。


 彼女は、比喩に野球を使いがちだったが、たまに、プロレスでたとえることもあった。そうしたときは必ず、を引き合いに出していた。


 しかし阪倉春子さかくらはるこは、ハサミの刃でひたいを切るパフォーマンスや、大量の画鋲がびょうの上に相手を投げ飛ばす技のことを聞くと、必ず青ざめていた。


 彼女は、阪倉春子のことを嫌っている。おれは、そう直感した。そしてその直感は正しかった。阪倉春子は、、彼女の顔面に石を投げつけたのだから。


 その光景を見ていたおれの感想はといえば、こういうのを受けても気絶しないもんなんだなとか、血が流れだすには少し時間をおかなければならないんだな、とかいうのだった。最初はね。


 そして、あの石の軌道は間違いなくツーシームのであり、


 だからだろうか。おれはのことを好きになってしまった。そんなの、当たり前じゃないか。


 なんでそんなことを思いだしたのかといえば、繁華街の入口で、すさまじい喧嘩をしているのを目撃したからだ。


 相手めがけて、道端の石ころをぶん投げている。あたりからひとは遠のき、ほんものの決闘みたいになっている。「ほんものの」というのは、フィクションではあんまりみないってことだけど。こういうタイプの喧嘩を。


 ここを突っ切るなんて、ムリだぞ。もうちょっと落ち着いたところ、たとえば駅近くのファミレスとかに行こうぜ、という提案は、。華麗なる筆致ひっちで書き記したかのような響きのある「いいよ」だった。


 おれ、これから朝まで新藤しんどうと(いうやつと)過ごすことになったんだけど。ということは、母さんに電話をして、しぶしぶ許可をもらっているから、安心してくれ。


 なんか、頭がぐわんぐわんする。ちゃんと呼吸ができていなかったんだろうな。ちょっと酸素が頭に回っていないのかもしれない。アドレナリンもでているみたいで、ぜんぜん眠くない。


 もしいまごろ、社会人として、ひとり暮らしなんかをしていたとしたら、こうやって夜に出歩くのも慣れたもんなのかもしれないけれど、あいにくニートから、ひとりでここにいるなんて考えられない。


 目に見えるものの七十六パーセントくらいがまったく新鮮な光景で、二十二パーセントくらいは、テレビかなんかで見たような気がする。


 だったら、残りの二パーセントはなんなのだろう。一度も見たことがないものだろうか。いや、おれはそれの知っている気がする。


「なんか、一気に新藤が身近な人になったって感じがする」

「そう?」

「おれたち、出会って半年も経ってないんだっけ?」

。そういうことはどうでもいいんじゃないか。大事なのは、ぼくたちにはしか残されていないということだよ」

「十年?」

「十年っていうのは〈漫才ワン・グランプリ〉の出場資格のこと。結成十年以内の漫才師しか出場できないんだよ。それで優勝するのが、ぼくのとりあえずの目標なんだ。いや、ぼくたちの目標に、


 じゃあ、おれはすごくがんばってネタを作らないといけないってわけか。というか、はやく漫才の技術を身につけないといけないってわけか。たいへんなんだろうけど、なんというか、


「だから、ニートにいにはがんばってもらわないと」

「喧嘩を売ってんの?」

「芸名だよ」

「芸名?」

「新藤っていうのは、芸名なんだ。。ぼくも芸名だから、きみも芸名を名乗ってほしい」


 なんだそれ。だけどおれは、当然ながら直感した。新藤は「新藤」という名字に、のだと。しかしそれをくには、まだはやいという感じがした。


「ニートは分かるけど、なんで『兄』なの?」

「ぼくのコンプレックスを反映しているんだよ」

「ふうん……」

「いや?」

「べつにいいけど」


 これから先、本名だとなにか差支さしつかえがあるかもしれないし、べつにいいか。素直に、いい芸名だなって思わないこともないし。

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