第65話 アメリカにおけるヘッセ ―その熱狂的な歓迎ぶり- 6
この一文を読んでから約1か月後の11月24日、偶然にも朝日新聞「世界の教育・アメリカ篇」を読んだとき、はじめてヘッセ・ブームの謎が解けたような気がした。現在のアメリカでは、日本以上に学歴が偏重され、修士・博士以外はエリートコースを進めないために、成績競争が激化し、脱落組、中退組、蒸発組が急増して、ヒッピー属の供給源になっているというのだ。
しかも、彼らのなかには、すぐれた資質を持ちながら、みずからエリートコースに背を向けてふいと大学を去ってゆく者もかなりあり、真理追求とは程遠いテストの準備に目を赤くしながら深夜図書館にこもって勉強している青年たちを見ていると、彼ら脱落組の心情がわかるという、エリート・コースから自分を解放し、体制の外側に立つことで自分自身のものをつかみたい、人間的でありたい、と彼らは願っているようである。
また、1万人の学生のうち千人は専門家の相談を要する精神障害をもち、5-20人が自殺を図っているという実態も、幼時からのはげしい競争と無縁ではない、ということであった。
ここにヘッセ礼賛の鍵が発見できるように思う。右の一文の題名や内容などからみて、アメリカの若い知識人がコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」に啓発されたらしいことは十分に推察できるが、それにしてもヘッセが熱狂的に歓迎される背景はそれ以前から完全に整っていたことがわかる。「体制の外に立つことで自分自身のものをつかみたい。真に人間的でありたい。」と望むアメリカのアウトサイダー達がヘッセの作品を読んで全的に共感し、かってのドイツの青年たち動揺「自分たちの内奥生活の代弁者」が出現したと信じて狂喜したさまを知れば、出会いの遅かったことを嘆きさえしたであろう。しかも、「ペーター・カンチメント」などの英訳はまだ出ていないようだし、それら主要作品の英訳が出そろえば、いよいよブームは上昇するものと思われる。
自分はここでアメリカ人に対する偏見をあらためたい。彼らの間でそのように高度な哲学的小説が愛読されるということはアメリカおよびアメリカ人にとって歓迎すべき傾向であり、ヘッセ自身も墓のなかから皮肉な喜びをおおえていることであろう。彼ら西部劇の子孫たちもヘッセを理解する能力がないのではなかった。ただ、翻訳というものが日本ほど発達していないために、紹介が2、30年おくれたまでのことなのだ。
ヘッセがとくに日本で歓迎される主要その一つとして、その作風が東洋的であることをあまりに重要視しすぎていた自分は愚かであったというほかはない。そんなことはヘッセの多面性のほんの一部分にすぎないからだ。
同じブームにしても、「感傷的な漂白詩人」などという安っぽいレッテルしか貼れなかった日本人の誤解(「ヘッセ」1号の拙文「誤解されやすいヘッセ」参照)に比べると、アメリカのそれはウィルソンらに啓発された高度なものであり、日本人以上に深い理解の上に立った、より堅固な永続性のあるものといえよう。私は彼らに心からの握手を求める。
いまやヘッセは、国境や民族を超えて、ますます広く深く現代人のなかに浸透してゆく。生存競争が激化し、進学教育や学歴偏重がはげしくなればなるほど、「車輪の下」のハンスはわれわれの襟髪を強くひっぱり、都会の過密公害が猛威をふるえばふるうほど、「郷愁」のペーターはいびつな現代人を人間の故郷である美しい大自然や魂の安息所へといざない、甘美で清涼な酸素を満喫させてくれるのである。
こういうところにもヘッセの永遠の若々しさ、いつまでも読まれるユニークな強みといったものがありそうに思われる。 (作家)
以上引用終(全文)
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今回はあえて解説を加えません。次話では、この文が紹介された「HESSE」第2号の四反田五郎によるあとがきを引用いたします。この時代の情勢と空気が、これでご理解いただけると思われますので。感想(解説)回を、その後に設けます。
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