限りなく完全に近い都合のいい犯罪
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年5月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
「ひき逃げ数というのは、年々減少している」
と言われている。
確かに、ひき逃げをしても、逮捕される可能性は高いだろう。実際にはどうなのか分からないが、単純に考えて、街中に縦横無尽といってもいいほどに張り巡らされているといってもいい、防犯カメラの数。
あるいは、最近では、車の中に標準で常備されていておかしくないと言われる、ドライブレコーダーなどが設置されていることで、
「ひき逃げをしても、どうせ捕まる」
ということが分かるからだ。
しかし、それでも、決定的に減っているわけではないのは、
「人を轢いてしまって、その場を逃げ出さなければならない理由がある」
ということであろう。
つまりは、
「ひき逃げにおける罪の重さと、その場で自らが名乗り出てしまって受ける罪の重さを、秤に架けて、どちらの方が重いか?」
ということを考え、
「その場で自首する方が重い」
と考えた時、
「逃げるしかないではないか?」
ということになるのだろう。
それが、例えば、酒気帯び運転。さらには、飲酒などであれば、下手をすれば、
「殺人罪」
ということにでもなれば、それこそ、
「人生が終わりだ」
ということになるだろう。
だから、犯人の中には、その場で一度逃げて、酒が抜けたタイミングを見計らって、自首してくるということになる。
その時、これが仕事上ということであれば、会社の社長に付き添われての、本人たちがいう、
「自首」
ということになるだろう。
しかし、実際には、一度逃げてしまうと、
「自首」
ということではない。
つまり、
「犯罪事実が発覚し、防犯カメラなどで、容疑者が特定された後であれば、警察に自首したとは言わない」
ということだ。
その場合は、
「出頭」
ということで、逮捕と状況が違うだけで、刑としては、同じことだ。
自首というものは、あくまでも、警察が容疑者特定されていない時に、自らが警察に赴いた時であり、一度、
「逃げた」
という事実があれば、普通は自首とは言わないだろう。
そもそも、自首と、出頭では、
「減刑」
という意味で違うだけで、犯罪を犯したということで変わりはない。
さらに、ひき逃げの場合は、普通の交通事故と違い、その悪質さは、その犯行を見るだけでも、悪質なものである。
というのは、ひき逃げというものには、大きく3つの犯罪がある。
「一つは、被害者が生きているかどうかを確認し、まだ生きていれば、救護しなければいけないという、救護義務が発生する」
という、
「救護義務違反」
そして、
「交通事故を引き起こした。あるいは、見た場合も、速やかに通報しなければいけない」
という、
「通報義務違反」
さらに、人を轢いたということでの、
「業務上過失」
というものだ。
普通の交通事故であれば、
「業務上過失」
というだけである。
なぜなら、警察に通報し、救急車を手配すれば、それだけで、
「救護義務違反」
「通報義務違反」
はなくなるわけである。
だから、
「人身事故」
ということで処理されることになり、少なくとも、
「悪質な犯罪」
ということではないだろう。
それでも、ひき逃げをしてしまうということは、それだけ、
「飲酒運転と比較した時、ひき逃げを選んでしまうほど、飲酒運転というものが悪質だ」
ということになるのだろう。
それは、約10年くらい前だったであろうか? 親子が飲酒運転のひき逃げによって無残にも殺害されたことから火がついて、
「飲酒運転撲滅運動」
というものを、叫ばれるようになったことで、社会問題となり、道交法などの改正によって、飲酒運転の罰則が、以前と比べて、かなり重くなったということである。
だから、
「ひき逃げと言われても、飲酒運転で捕まることを思えば、まだマシだ」
という、おかしな考えに至る人が多いということだろう。
そもそも、正しい判断能力に欠けた状態で車を運転し、人を撥ねるということになるのだから、ひき逃げというパニック状態で、冷静になれるわけはない。
当然、犯人は、自分のことしか考えられなくなっているわけで、まずは、自分が飲酒運転をしたということだけを考え、被害者がもし、死んでいれば、確実に逃げることを考えるだろう。
何といっても、飲酒運転の上での業務上過失なのだから、それこそ、
「殺人罪と同じだ」
と考えてしまい、ひき逃げにおいての罪の重さを考える余裕などないだろう。
ただ、問題は、
「被害者が生きている場合」
ということであり、瀕死の重傷をそのまま放っておくことに対して、少しでも罪の意識があれば、ひき逃げなどを選択することはないだろう。
ただそれも、
「普段であれば、絶対に救護する」
というような性格の人であっても、このような緊急事態に陥った時、判断力が欠如するということになる人も、実は結構いることであろう。
それこそ、
「人は見かけによらない」
といってもいい。
とにかく、パニックに陥り、何をどうしていいのか分からない状態で、犯人は、結局、
「最後は自分がかわいい」
ということになるから、ひき逃げなどを犯すのだろう。
ひき逃げを犯す場合に考えられることとしては、今の例のように、
「酒気帯び」
あるいは、
「飲酒運転」
という状況で運転していたという事実があった場合。
それと、あと考えられることとして、
「立場的に、交通事故がバレるとヤバい」
と考える人、
「たとえば、政治家などのように、社会的地位というものがしっかりしている人」
という場合もあるだろう。
「選挙が近づいていて、交通事故で、人を殺した」
ということになれば、刑事事件としては、
「人身事故」
ということでの裁きということなのだろうが、自分の立場で、しかも、選挙が近いともなると、どんなに、
「お偉い議員」
といっても、判断能力が最低となり、逆に、悪だくみの方が先に来ることになるのではないだろうか?
これが刑事ドラマなどでは、
「ひき逃げどころか、実際に運転していたという人を別人にでっちあげる」
ということを平気でしていた。
それこそ、任侠の世界での、
「身代わりに自首する」
という、昭和の時代のやくざ映画を彷彿させられるというものだ。
今の時代では、さすがに、
「バレる可能性は高い」
といえる。
それは、
「ひき逃げにしてもそうなのだが、どこで防犯カメラに映っているか分からない」
ということであった。
昔であれば、
「スピード違反を取り締まるカメラに映らなければ、何とかなった」
ということで、それでも、スピード違反のカメラに映っていたことが、何かの犯罪のアリバイ崩しに役立つということもあったくらいだから、
「ひき逃げする場合も、当然のことながら、犯人としては、ずっとびくびくする時期を過ごさなければいけないというのは、今も昔も変わりはないだろう」
ただ、今は、車の中に、ドライブレコーダーというのが設置されている。
こちらは、数年前から問題になっている、
「煽り運転」
という問題から、設置する人が増えたというものであるが、この、
「煽り運転」
というのは、
「車を運転していると、イライラが募ってくる」
というのは、昔からあることであるが、最近では、
「全体的な運転技術の未熟さというものからなのか?」
それとも、
「人間自体が、気が短くなってきている」
ということからくるものなのか、そのイライラを抑えることができず、相手の運転を妨げるかのような運転をして、相手を怒らせ、車を停車させ、本来であれば、相手が文句を言うべきところを、強引に自分から威圧を与え、自分の中にあるイライラを解消させようというような行為のことである。
相手が、どんな運転をしていたのかというのは、この際あまり関係がない。もちろん、他の人をイライラさせるような運転をしていた場合もあるので、その場合は、
「普通の運転トラブル」
ということになるのだろうが、あくまでも、自分のストレス解消を目的として、
「相手は誰でもいい」
という感覚で、人を煽るという、実に悪質な犯罪が横行しているのだ。
だから、
「相手に煽られた」
という証拠を持っていれば、警察に訴えても、
「脅迫罪」
などで、訴えることもできる。
そのための、
「いつ自分が、煽り運転の被害者になるか分からない」
ということでの、防御方法としての手段が、今の時代、標準で装備されることになるだろう、
「ドライブレコーダー」
というものであった。
「今までにもあったかも知れないことであるが、社会問題となって、やっと政府も法律を作ったり、罰則を強化したり」
ということで、重い腰を上げたということになる。
そういう意味で、
「飲酒運転」
「煽り運転」
などというのは、実際に昔からあったが、社会問題になったことで、やっと、
「本来の罪」
に、そのレベルが近づいたといってもいいだろう。
本当であれば、まだまだ足りないくらいなのだろうが、その効果は本当に出ているといってもいいだろうか?
考えてみれば、
「社会問題になり、罰則が強化されたことでの効果として、一番望まれる」
というのは、
「犯罪の抑止力」
というものではないだろうか?
つまり。
「飲酒運転で人を殺せば、殺人罪と同じ」
ということになる。
あるいは、
「煽り運転をすると、それだけで、社会的に抹殺される」
というような刑罰があるとすれば、本来であれば、
「犯罪が驚異的に減ってもいいはずだ」
もっといえば、
「なくなってもしかるべき」
ということのはずなのに、実際には、減るどころか、飲酒運転など、
「歳末取り締まり」
であったり、
「春の交通安全週間」
などという、決まった期間の取り締まりでも、出るわ出るわ。どんどん、検挙されているではないか。
しかも、
「公務員」
あまつさえ、取り締まるべき人間であるはずの、
「警察官」
が平気で飲酒運転をしているという状況である。
そもそも、報道されるのが、公務員ということなのだが、それも毎日のように名前が挙がっているではないか。
つまり、
「氷山の一角」
ということで、それこそ、
「一匹見れば、十匹がいるのではないか?」
と言われる害虫のようではないか。
つまりは、本当の取り締まりでは、相当数がいるということになるのだ。
もっとも、これはありえないと思うが、
「隠蔽というのもあるのではないか?」
という陰謀論的な発想も出てくるというのは、それだけ、
「法律も、行政も信じられない」
という世の中だといえるのではないだろうか?
確かに、警察組織というのも、
「信じられない」
と思えることが多すぎる。
よく言われることとして、
「警察は、何かが起こらないと動いてくれない」
ということで、特に、ストーカー事件などひどいもので、
「ストーカー殺人」
と言われる犯罪が起こった時、そのほとんどが、
「一年前くらいから警察に訴えていて、形の上では、対策を取ってもらっていた」
というものが多い。
当然、それが分かれば、マスゴミなどが、
「警察のやり方に落ち度はなかったのですか?」
という攻撃を受けるだろうが、
「はい、警察としては、状況を判断したうえで、最善の策を尽くしております」
と堂々と記者会見などで言ってのける。
当然、悪かったということを認めておらず、認めるわけにはいかないということなので、被害者や、その家族に謝罪するということはしない。
「お気の毒なことです」
とはいうものの、決して謝罪はしないだろう。
謝罪をしてしまうと、自分たちの手落ちを認めることになるからだ。
それは警察の立場としても、メンツとしてもできるわけはない。
警察の幹部が考えることというのは、
「警察というのは、威厳があり、その威厳を市民が認める状態でないといけない」
という考え方だ。
だから、検挙率にこだわるのも、
「市民に、警察は頼りになる組織」
ということを思わせるための威厳ということで、力を入れているのである。
しかし、本来であれば、
「犯罪を未然に防ぐ」
という観点から、
「検挙率よりも、犯罪の発生率」
というものを示すのが分かりやすいということになるだろう。
しかし、犯罪の発生率をいかに指標にするかというのは難しい。
「犯罪の発生件数」
というものでの比較はできるかも知れないが、例えば、交通事故など一つをとっても、
「交通事故の件数は減っている」
といって、
「ああ、交通事故に関しては、治安が守られているんだな」
と安易に考えていいものだろうか。
というのも、
「件数は減っているかも知れないが、死亡率は増加している」
ということなのかも知れない。
あるいは、前述の問題となっている、
「ひき逃げが増えている」
というようなことであれば、
「凶悪化している」
ともいえるだろう。
さらに、
「飲酒運転の検挙率が高い」
と言った場合、
「撲滅を目指しているのに、検挙率が高いことを自慢できるわけなどないではないか」
ということになるだろう。
つまりは、一つの犯罪をとっても、その状況を輪切りにして考えた場合、その性質から、一概に言えないことも多いわけで、そう考えると、
「そもそも、警察の威厳」
というものは、どこにあるというのだろうか?
そもそも、時代というものが、
「威厳というものを求めているのか?」
ということである。
「威厳」
という言葉を考えた時、パッと思いつくものとして、以前であれば、特に昭和の時代などになれば、
「父親の威厳」
というものがあったではないか。
つまりは、
「家長制度」
というものがあり、家庭では、父親が一番偉いと言われていた時代があったではないか。
その時代は、
「夕飯は、父親が帰ってきてからでないと食べてはいけない」
であったり、
「メニューは父親だけ豪華」
であったり、などということが普通にあったのだ。
もちろん、
「父親が働いて金を稼いでくる」
という実質的な理由もあっただろうが、昔からの。
「父親が家長として君臨する」
というものが当たり前だった時代には、それなりに、
「父親には、威厳というものがあり、威張るだけの理由たらしめる力があった」
と言えた。
しかし、時代が進むうちに、父親の威厳というものは、まったくなくなってしまい、
「家長制度の崩壊」
といってもよくなったのであろう。
そもそも、敗戦後、日本は民主主義になったのだから、家長制度も崩壊してもよかったはずなのだが、実際には、まるで惰性であったかのように続いていた。
しかし、その時代が
「バブルの崩壊」
というものにより、共稼ぎなる状態が増えることで、
「父親だけの威厳」
というわけにはいかない時代になってきたのだった。
しかも、
「三億円事件」
というものから端を発して、
「給料の銀行振り込み」
というものによって、
「金による威厳」
という最後の手段がなくなったことで、
「父親の威厳」
というものも、崩壊したといってもいいだろう。
そんな状況において、
「父親の威厳」
というものがなくなり、時代は、
「民主主義」
と言われるものに進んできていることにより、
「自由を守るために、巻き起こる制限」
というものも出てきた。
それが、
「プライバシー保護」
「男女同権」
などがそれにあたるということであり、逆に、
「科学の進歩」
であったり、
「人間の性格面での世の中の変化に対応できない」
ということでの社会問題もたくさん出てくるのであった。
特に、詐欺事件などがその例で、
「サイバー詐欺」
などと言われる、
「コンピュータウイルス」
などによる詐欺であったり、
「オレオレ詐欺」
などというものによる、詐欺の多様化が起こってくることで、社会問題も多様化してくるということになったのだ。
そういう意味で、
「警察の犯罪捜査も、警察幹部がいうように、威厳のあるものでなければ、市民は警察に協力をしない」
ということになるだろう。
「頼りない警察に協力しても」
ということになるわけで、さらにもっといえば、
「下手に警察に協力し、犯人から狙われるようなことになったとして、じゃあ、警察が命を保障してくれるか?」
というと、信じられるものではない。
もっといえば、
「威厳というものがあったとしても、その威厳だけで、果たして警察を信用できるというものか?」
ということである。
確かに、命を守ろうとはしてくれるであろうが、それはあくまでも仕事ということであり、
「警察の威厳というものを損なってまで、市民の命を守ろうとするか?」
と考えれば、疑問に感じてしまうだろう。
結局。自分たちの立場と、市民の命を天秤に架けて、それで重たい方を優先するということになるのだ。
本来であれば、
「市民の安全と財産を守る」
というのが、警察の存在意義ではないのか?
それを考えると、
「人の命や財産と、何を天秤に架けるというのだろうか?」
ということであり、
「天秤に架けた時点で、終わりだということに気づかない」
というのが、警察というものなのだろう。
それを考えると、
「思考回路は、犯人と変わらないんだ」
とおもえ、その時点で、
「威厳などという言葉は、まったくの架空である」
といってもいいだろう。
ただ、これはあくまでも、組織ということで考えた場合であるが、警察官、個人個人の考えはこの限りにあらずだということである。
その個人個人の考え方が、
「警察幹部の考え方ではないことを祈るばかりでしかない」
というのが、現状なのだろう。
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