第2話 冷淡な騎士団長
屋敷の夜明け
朝日がカーテンの隙間から差し込み、リリアの顔に優しく触れた。彼女はゆっくりと目を開け、一瞬戸惑った。
《そうだ、クラウス・ヴォルフガング騎士団長の屋敷だ》
軽いノックの音が彼女の思考を中断させた。
「リリア様、起きてる?」マデリンの明るい声が扉越しに聞こえた。
「ええ、入ってどうぞ」
マデリンが朝食のトレイを持って入ってきた。焼きたてのパンの香りが部屋に広がる。
「お早うございます。お食事をお持ちしたよ」
「ありがとう、マデリン。とても美味しそうね」
少女は喜んで微笑んだ。「今日は王都に戻るの?」
リリアは一瞬躊躇った後、決意を込めて首を振った。「いいえ、クラウス様にもう一度お会いしたいの。姉から依頼された治療をする義務があるわ」
マデリンは目を見開いた。「本当に!?実はね」彼女は周囲を確認するように声を落とした。「みんな、団長が良くなることを願ってるの。昔はすごく優しくて、笑顔の絶えない方だったのに...」
「昔は?」
「うん、『黒き森』から帰ってきてから、あの方は変わっちゃった。特に日が沈むとね...」マデリンの瞳に悲しみが浮かんだ。「皆が静かにしていても、まるで耐えきれない痛みに苛まれているみたいで...」
リリアは彼女の肩に軽く手を置いた。「私にできることがあれば、必ずやってみるわ」
マデリンは嬉しそうに頷き、「朝食の後、ゲラルドがご案内するよ。じゃあね」と言って部屋を出て行った。
朝食を終えたリリアは、鞄から薬師の服を取り出した。白と緑の清潔な服に着替え、母の形見の銀の鎌を腰に下げる。
《クラウス様に会えなくても、せめて屋敷と庭の薬草を調査してみよう》
彼女は扉を開け、昨夜とは違う、朝の光に満ちた廊下へと足を踏み出した。
屋敷の謎
リリアが廊下を歩いていると、ゲラルドが階段の下で待っていた。彼の表情は昨夜よりも柔和になっていた。
「おはようございます、リリア様。お休みはいかがでしたか?」
「おはようございます。ええ、とても快適でした」彼女は丁寧に答え、真っ直ぐに本題に入った。「ゲラルド様、私はまだ王都に戻るつもりはありません。クラウス様と直接お話しし、薬師として責任を果たしたいのです」
ゲラルドは複雑な表情を浮かべた。「お気持ちは理解できますが...団長の命令は絶対です」
「でも、薬草園を見せていただくことはできませんか?それくらいは許されるでしょう?」
執事は迷いながらも頷いた。「それは...構わないでしょう。屋敷内と庭園のご案内をいたします」
ゲラルドの案内で、リリアは屋敷内を探索し始めた。一階には既に見た玄関ホールとダイニングルーム、大きな書斎、そして使用人たちの部屋が並んでいた。
「三階は使っていないのですか?」リリアが尋ねると、ゲラルドは不自然に咳払いをした。
「あちらは使っておりません。かつては主人のご両親がお住まいでしたが...」
奥に進むにつれ、リリアは壁に掛けられた肖像画に目を留めた。そのうちの何枚かは黒い布で覆われていた。
「あの覆われた肖像画は?」
「クラウス様のご指示です」ゲラルドは言葉少なに答えた。「特定の先祖の絵は、覆うようにとのことです」
さらに進むと、彼らは小さな図書室に着いた。そこには古い本が並び、特に森や獣に関する書物が多く見られた。
「この屋敷は代々、『黒き森』の守護を担ってきたのですね」リリアは本棚を見ながら呟いた。
「そのような伝承もあります」ゲラルドは慎重に答えた。
執事は次の部屋へと案内した。やがて彼らは庭園へと出た。朝の光の中、庭は息をのむほど美しかった。
「あそこが薬草園です」ゲラルドは指差した。「かつて団長の母、ヘレナ夫人が大切にしていた場所です。彼女もまた、お薬の知識に長けていらっしゃいました」
リリアは興奮を抑えられなかった。薬草園は石畳で区切られていたが、明らかに手入れが行き届いていない。雑草が生い茂り、植物が混在していた。
「夫人の他界後、適切に管理する者がいなかったのです」ゲラルドは申し訳なさそうに説明した。
リリアは腰を下ろし、土に触れた。「許可いただければ、私が少し整理してもよろしいですか?」
執事は驚いたようだったが、「もちろん、どうぞ」と答えた。
彼女は母から受け継いだ銀の鎌を取り出し、雑草を取り除きながら使えそうな薬草を収穫していった。
「ヴォルフガング家に伝わる独自の薬草はありますか?」作業の合間に彼女は尋ねた。
「いくつかあります。特に向こうの角に植えられている『銀輝草』は、ヴォルフガング家だけが栽培方法を知る貴重な植物です」
リリアは目を輝かせた。銀輝草は伝説の植物で、彼女は本でしか読んだことがなかった。それは強力な浄化能力を持ち、特に「月の影響を受ける病」に効果があるとされていた。
「まさか本当にあるなんて...」彼女は畏敬の念を込めて植物に近づいた。銀色の葉を持つ美しい草は、朝日に輝いて神秘的な光を放っていた。
「採取してもよろしいですか?」
ゲラルドは躊躇った。「クラウス様の許可が...」
「必ず治してみせます。そのために銀輝草が必要なんです」リリアは真摯に言った。
執事は彼女の決意に動かされたのか、静かに頷いた。「少量であれば」
リリアは感謝のしるしに頭を下げ、丁寧に数枚の葉を収穫した。彼女が銀の鎌を使って植物を切る際、その鎌が一瞬青く光ったように見えた。ゲラルドは目を見開いたが、何も言わなかった。
薬草園での作業を終え、彼らは再び屋敷に戻った。リリアの薬草箱には新たな収穫物が加わり、彼女の心には新たな決意が芽生えていた。
昼間の主
屋敷に戻ると、リリアは執事に思い切って尋ねた。
「ゲラルド様、クラウス様が私に会ってくださらないのなら、せめて彼の日常の様子を見せていただけませんか?治療のためには、症状を詳しく知る必要があります」
ゲラルドは眉をひそめたが、長い沈黙の後、「書斎の隣にある小さなサンルームからなら、団長の様子を少しだけ見ることができます」
「約束します」
彼に導かれ、リリアは庭に面した小さなサンルームへと入った。そこからは、大きな書斎の一部が見えるようになっていた。彼女は壁の陰から静かに覗き込んだ。
書斎ではクラウスが大きな机に向かって座っていた。彼の黒髪は肩にかかるほど長く、端正な顔立ちは窓から差し込む光に照らされ、青白く見えた。
リリアは胸が高鳴るのを感じた。彼は想像していたよりも若く、その姿には威厳と共に、何か言いようのない孤独が漂っていた。
「毎日、王国の国境警備の報告書に目を通されています」ゲラルドが小声で説明した。
まるでその言葉に応えるかのように、扉が開き、騎士の制服を着た若者が入ってきた。
「失礼します、団長」若い騎士が一礼した。
「ルーク」クラウスは顔を上げた。彼の声は低く、落ち着いていた。「西方国境の報告はどうだ?」
「はい。現在のところ、敵対行動は見られません。しかし...」ルークは地図を広げた。「この一帯に奇妙な痕跡が見つかりました。大型の動物の足跡のようですが、通常の獣とは違います」
クラウスの表情が一瞬こわばった。「写生はあるか?」
若い騎士は紙を取り出した。「粗いものですが...」
リリアからは見えなかったが、クラウスはしばらくその絵を見つめていた。「これは...」彼は何か言いかけて止まった。「監視を続けろ。これ以上の詳細が分かれば直ちに報告するように」
「はい、団長」
ルークが去った後、クラウスは大きなため息をついた。彼は窓際に立ち、森の方を見つめていた。その背中には言いようのない重荷が乗っているかのようだった。
リリアは彼の左手に目を留めた。黒い革の手袋をはめており、書類に署名する時も外さなかった。それどころか、右手で左手首を無意識に摩っているようにも見えた。
「彼はいつも手袋をしているのですか?」リリアは小声で尋ねた。
ゲラルドは少し驚いたように彼女を見た。「鋭い観察力をお持ちですね。はい、一年前から左手には常に手袋をしています」
その時、クラウスが突然身震いし、窓際の時計を見た。外の空は徐々に夕暮れの色に染まり始めていた。
「症状が現れ始める時間です」ゲラルドは静かに言った。
クラウスの動きが変わった。彼は書類を急いで片付け始め、左手が微かに震えているのが遠くからでも分かった。額に汗が浮かび、表情には痛みの色が見えた。
「毎晩、同じ時間に症状が出るのですね」リリアは呟いた。
「はい。日没の約一時間前から始まります。そして団長は必ず自室に戻り、翌朝まで出てきません」
クラウスは立ち上がり、ベルを鳴らした。すぐに別の使用人が入ってきて、彼に一礼した。クラウスは何か指示を出し、急ぎ足で部屋を出て行った。
彼の姿が見えなくなった後も、リリアはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼の苦しむ姿が彼女の心に深く刻まれていた。
「戻りましょう」ゲラルドが彼女の肩に手を置いた。「もうすぐ日が沈みます」
決意の夕暮れ
夕食の時間、リリアは執事に「できれば屋敷の薬草室を使わせてほしい」と願い出た。ゲラルドは迷った様子だったが、彼女の熱意に負け、許可を与えた。
「あちらの離れにある薬草室をお使いください。かつてヘレナ夫人が使っていた場所です」
「一晩でできることをやってみます」リリアは微笑んだ。「それでクラウス様の心を動かせるかもしれません」
薬草室は小さな離れの中にあった。扉を開けると、埃こそかぶっていたものの、驚くほど充実した設備が整っていた。調合台、乾燥ラック、蒸留器、そして壁一面の棚には様々な薬瓶や薬草が並んでいた。
「素晴らしい...」リリアは感嘆の声を上げた。
彼女は作業を始めた。まず部屋を清掃し、今日集めた薬草を分類していく。月光草、そして特に貴重な銀輝草を選び出す。壁には薬草の効能を記した古い図表が掛けられており、特に「月の病」と呼ばれる症状に対する治療法が詳しく書かれていた。
「やはり、クラウス様の症状は月の満ち欠けと関係があるのね...」
リリアは手帳を開き、昨夜浮かんだ処方と今日見たクラウスの症状を照らし合わせた。左手の震え、発汗、そして日没前の苦痛——これらは「月の影響」を受ける典型的な症状だった。
彼女は調合を始めた。熱心に薬草を刻み、乳鉢でつぶし、適切な割合で混ぜていく。母から学んだ技術と、自分自身の直感を頼りに、一滴、また一滴と精油を加えていく。
銀輝草の葉を加えた瞬間、調合物が淡い青色に光り始めた。リリアは驚いたが、直感的にそれが良い兆候だと感じた。彼女はペンダントに触れ、《お母さん、力を貸して》と心の中で願った。
その時、窓の外から物音が聞こえた。リリアが振り向くと、庭に何かの影が移動するのが見えた。大きく、動物のような姿だ。彼女は恐れる代わりに、窓に近づいた。
月明かりの中、一頭の巨大な黒狼が庭を横切っていた。その毛並みは漆黒で、月の光を吸い込むようだった。狼は突然立ち止まり、振り返った。リリアと視線が合った瞬間、彼女は鋭い緊張が全身を走るのを感じた。
きらりと光る金色の瞳。彼女の直感が囁いた——あれはもしかして...
リリアは窓を開け、「待って!」と声をかけた。
狼は一瞬躊躇ったかに見えたが、すぐに森の方へと走り去ってしまった。
部屋に戻り、リリアは調合の最終段階に入った。彼女の指は震えることはなく、確かな動きで薬を完成させていった。できあがった液体は透明な青色で、ガラス瓶の中で微かに光を放っていた。
「これで...少なくとも症状を和らげることができるはず」
彼女は薬瓶にコルクをし、「クラウス様へ」と書いたメモを添えた。明日の朝、何としてでも彼に会う方法を見つけなければならない。
疲れが彼女を包み込み始めていた。窓の外を見ると、森の中でまだ何かが彼女を見つめているような気がした。
「必ず、あなたを助けます」リリアは月に向かって誓った。
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