呪われた騎士団長と身代わりの薬師令嬢

@kasumion

第1話 身代わりの誓い

薬師の家の日常

緑の香りが立ち込める朝、リリア・ハーブライト(18歳)は庭の薬草園を丁寧に見回していた。朝露がまだ光る花床の間を歩きながら、茶色の髪を一つに結い、質素ながらもきちんとした白と緑の薬師服に身を包んでいる。

「ラベンダーの若葉が出てきたわ」

彼女は優しく葉に触れながら微笑んだ。昨年自らが交配させた品種だった。コンフリーの根に指を滑らせると、充分に育っていることを感じ取る。

「これで血止め薬の調合に使えるわ」

祖母の形見である古い薬草事典を片手に、彼女は収穫用の小さな銀の鎌を取り出した。この鎌は薬草の魂を傷つけないよう特殊な儀式で清められており、ハーブライト家代々の薬師が使用してきたものだった。

裏門の方から急ぎ足の音が聞こえてきた。

「リリアさん!リリアさん!」

声の主は12歳ほどの少年で、膝に負った怪我から血が滲んでいた。

「トビー、どうしたの?」

「木に登ってたら、枝が折れて...」少年は恥ずかしそうに言いながらも、痛みに顔をしかめている。

リリアは少年の怪我を一瞥し、「深い傷ね。でも筋は切れていないわ。中へ入りましょう」

少年を診療室へ案内しながら、リリアの胸に一瞬の翳りが差した。母さんだったら、一目見ただけでもっと正確に判断できたはず。

診療室の窓から差し込む朝日が、吊るされた薬草の影を床に神秘的な模様を描いていた。リリアは手早く傷を洗浄し、コンフリーのエキスを塗布。セージの煎じ液で感染を防ぎ、カレンデュラと月桂樹を混ぜた特製の軟膏を塗りつけていく。

包帯を手に取った瞬間、母が同じ動作をしていた記憶が鮮明に蘇り、彼女の手が微かに震えた。瓶が指先から滑り落ちそうになり、慌てて受け止める。

「リリアさん、大丈夫?」トビーが不安そうに尋ねる。

「え、ええ」彼女は深呼吸をして平静を装った。「ちょっと集中していただけよ」

「傷の具合からすると、ナラの木に登ったのね?」

「どうして分かったの?」トビーは目を丸くした。

「傷の形と木の破片の色よ」リリアは微笑んだ。「この時期のナラは樹液が多く、枝が折れやすいの」

彼女は小さな瓶に追加の軟膏を詰め、それをトビーに手渡した。「これを一日二回、傷に塗るのよ。三日もすれば痛みはなくなるわ」

「リリアさんは本当にすごいや!」トビーは感嘆の声を上げた。「前にオバマール爺さんが同じような怪我をした時、他の治療師は一週間以上かかると言ったのに、リリアさんの薬で三日で治ったって」

リリアは謙虚に頷いたが、心の中ではでも私は母の域に達していないという思いが渦巻いていた。

診療室の窓辺に立ち、村の風景を見渡しながら、彼女は五年前の悲しい記憶を思い出していた。

母の記憶

「またしても効かなかったわ...」

母エレノアの声が、少女時代のリリアの記憶の中で響く。彼女の母は卓越した薬師だったが、自身が奇妙な病に冒されていた。徐々に体力が奪われ、時折激しい痛みに襲われる不思議な病だった。

「ウィロウバーク、エルダーフラワー...」母は薬草の名を呟きながら、調合台に向かって必死に新たな治療薬を作っていた。

13歳だったリリアは母の傍らで黙って薬草を刻み、できる限りの手伝いをしていた。しかし、病状は着実に悪化していった。

「リリア、こちらへ来なさい」

病床に横たわる母は、ある日リリアを呼び寄せた。彼女の顔色は土のように青ざめ、かつては生き生きとしていた瞳も力を失っていた。

「これをあなたに」

母は首から星形のペンダントを外し、リリアの手に託した。五芒星の形をした銀のペンダントで、中央には淡い青色の小さな宝石がはめ込まれていた。

「これは『守護の星』。浄化の力を持ち、身につける者を守るの」

母はリリアの手をぎゅっと握り、続けた。「私は自分を救えなかったけれど、あなたには誰もが救える薬師になってほしい。誰も薬では救えない病で苦しませないと、誓ってくれるかしら」

「誓います、お母さん」幼いリリアは涙ながらに約束した。

それから数日後、エレノアは息を引き取った。村中が彼女の死を悼み、葬儀には何百人もの人々が集まった。

あれから五年、リリアは母の教えを胸に、日々研鑽を積んできた。姉のシリルは二年前に王都の医術院に入り、最先端の医療を学んでいる。彼女とは対照的に、リリアは地に足のついた実践的な薬術を好んでいた。

首にかけた星のペンダントに触れると、リリアはいつも不思議な安心感に包まれた。このペンダントは彼女が集中している時、かすかに温かくなったり、微かに青く光ったりすることがあった。

夕刻、日の光が弱まる中、薬草園で咳止めシロップを確認していた彼女は、「やっぱりこれは透明度が足りない」と眉をひそめた。「母の配合なら、もっと澄んでいたはずなのに...」

姉からの手紙

翌朝、軽やかなノック音が扉から聞こえた。

「リリアさん、王都からの便りですよ」

村の郵便配達人マーティンが、封蝋で厳重に封印された手紙を手渡してきた。王都からの郵便は珍しく、リリアは不思議そうな顔で受け取った。

「王都では大変なことが起きているらしいよ」マーティンは声を落として言った。「西の国境で何か揉め事があったとか。騎士団が出動したって噂だ」

マーティンが去った後、彼女は手紙の封を開いた。上質な羊皮紙に書かれた文字は、間違いなく姉シリルの丁寧な筆跡だった。

親愛なる妹リリアへ

元気にしているか?王都での研究は順調に進んでいる。

だが、急な用事ができたため、頼みがある。以前から王太子殿下の推薦で依頼されていた「クラウス・ヴォルフガング騎士団長」の治療を、私の代わりに引き受けてほしい。

彼は特殊な呪いにかかっており、詳細は機密事項だが、我がハーブライト家の薬草療法が効果を見せるかもしれないと期待されている。特に母から教わった古い処方が役立つかもしれない。

この手紙を持って王都の東門に来れば、護衛が団長の屋敷へ案内するだろう。

決して軽い依頼ではないが、ハーブライト家の名誉のために、頼ましく思う。

愛をこめて、 シリル

リリアは何度も読み返した。姉が代役を頼むほどの「急な用事」とは何だろう?そして騎士団長という高位の人物の治療を、彼女のような田舎の薬師に任せてよいものだろうか。

「クラウス・ヴォルフガング...」

彼女は窓辺に座り、手紙を膝に置いた。その名前に見覚えはあった。確か一年前、西の「黒き森」での戦いで大勝利を収めた若き騎士団長だ。

「特殊な呪いにかかっている...」

彼女は母の薬草事典を開き、呪いに効く薬草のページを探した。自信のなさと不安が胸に広がる。彼女の手は再び震え始めた。

王都なんて... 大きな街に行くなんて...

リリアは窓の外を見つめた。彼女は生まれてからずっとフェアベル村で過ごしてきた。一度だけ父と近隣の小さな町に行ったことがあるが、それが彼女の知る最も大きな集落だった。王都は何万人もの人々が暮らす巨大な都市だという。

もしかして、これは試練なのかしら?姉さんが試しているのかも。

しかし、ペンダントが不思議と温かくなったのを感じ、リリアはそれに手を添えた。まるで母が「行きなさい」と背中を押しているように感じた。

悩んだ末、彼女は村の薬師シモンに相談することにした。シモンは彼女の父親の友人であり、母が亡くなってからの精神的な支えでもあった。

「なるほど、難しい選択だね」

シモンは長い白髭を撫でながら考え込んだ。

「私にできるでしょうか...」リリアの声には迷いがあった。「王都に行くのも初めてだし、ましてや騎士団長の治療なんて...」

「リリア、君はもう立派な薬師だよ」シモンは優しく微笑んだ。「むしろ私よりも新しい調合法に詳しいくらいだ」

「村の皆さんは...」

「心配するな。私が診療を引き受けよう」シモンは断固として言った。

「ありがとうございます、シモン先生。実は...心の中で母の声が『行きなさい』と言っているように感じるんです」

シモンは意味深な表情でリリアのペンダントを見つめた。「エレノアが遺したものは、単なる飾りではないのかもしれんな...」

「それはどういう...」

「いずれ自分で見つけることだ」シモンは微笑んだ。「さあ、準備をするんだ。西の国境から戻った騎士団長の噂は私も耳にしている。『黒き森の守護者』の伝説と何か関係があるのかもしれんな」

「黒き森の守護者?」

「古い民間伝承だよ。西の森には半人半獣の守護者が住み、領民を守っているという話だ。最近、また村人の間でその噂が復活している」

リリアはこの謎めいた話に興味を持ったが、シモンはそれ以上詳しくは語らなかった。

夕暮れ時、リリアは静かに決断を下していた。明日、王都へ向かうこと。そして、その謎めいた騎士団長の治療に全力を尽くすこと。

それでも、その決断の裏には、恐れと不安が渦巻いていた。

旅立ちの準備

翌朝、まだ夜明け前のことだった。リリアは慎重に旅支度を整えていた。

「薬草箱...治療道具...着替え...」

彼女は家伝の黒檀の薬草収納箱に、厳選した薬草と調合済みの薬瓶を丁寧に詰めていった。特に貴重なのは、月明かりの下でのみ採取できる「月光草」の葉と、「黄金の滴」と呼ばれる希少な樹液だった。

母の薬草事典も丁寧に包み、旅行鞄に入れた。そしてもう一つ、彼女は迷った末に母の日記も持っていくことにした。

最後に、彼女は首から星のペンダントを外し、眺めた。五芒星の形をした銀のペンダントは、朝日を受けて美しく輝いていた。中央の青い宝石は深い海のような色合いで、見る角度によって、内部で光が踊っているように見えた。

「お母さん...力をください」

リリアはペンダントを再び首にかけ、鏡の前に立った。いつもの薬師服ではなく、旅用の落ち着いた紺色のドレスを着ている自分が映っていた。

ふと、姉のシリルを思い出す。美しく聡明で、誰からも一目置かれる優秀な薬師である姉。それに比べて自分はまだまだ未熟だ。リリアは自らの不安を押し殺すように深く息を吸った。

「行ってきます」

誰もいない家に向かって小さく呟くと、彼女は薬師館の扉を閉めた。

朝靄の立ち込める村道を、リリアは静かに歩いていった。村を出る前に、彼女は一カ所だけ立ち寄りたい場所があった。小さな丘の上にある墓地だ。

石畳の参道を上り、彼女は母の墓の前に立った。清楚な白い石碑に「エレノア・ハーブライト」と刻まれている。リリアは膝をつき、持参した野の花を供えた。

「お母さん、王都に行ってきます。姉さんから頼まれて、騎士団長という方の治療をするの」彼女は小さな声で語りかけた。「不安はあるけど...」

風が優しく彼女の髪を撫でた。

「あの時の誓い、覚えていますか?誰も薬では救えない病で苦しませない、って」彼女は続けた。「今度の治療も、その誓いを守るためです」

朝日が墓石を照らし始め、リリアの心に温かさが広がった。立ち上がり、彼女は決意を新たにした。その時、ペンダントが一瞬、青く光ったような気がした。リリアは驚いて胸元を見たが、ペンダントは普段通りの姿に戻っていた。

「必ず戻ってきます。それまで見守っていてください」

振り返ることなく、彼女は東の道を進み始めた。王都への旅の始まりだった。

王都への道中

朝も遅くなった頃、村の外れの大きな街道に出たリリアは、王都行きの馬車に乗り込んだ。窓の外の景色を見ながら、彼女は村から遠ざかることへの不安に胸を締め付けられた。

「初めての王都ですか?」

隣に座っていた年配の女性が声をかけてきた。リリアは少し緊張しながらも頷いた。

「はい。姉に会いに行くんです」

「まあ、素敵ね。王都は初めは圧倒されるかもしれないけど、慣れれば素晴らしい場所よ」

穏やかな会話に心が和み、リリアはしばらく窓の外の景色に目を向けた。馬車は村の近くの森を抜け、次第に風景は開けた平原へと変わっていった。

昼食時に馬車は小さな宿場で休憩をとった。リリアは持参したパンと干し肉を食べながら、姉の手紙を再び読み返していた。

休憩を終え、再び馬車に乗り込もうとしたとき、突然声がかかった。

「リリア・ハーブライト殿ですか?」

振り返ると、騎士の制服を着た若い男性が立っていた。

「はい、そうですが...」リリアは驚きを隠せなかった。

「私はアルフレッド、王立騎士団の者です。クラウス殿の命により、あなたを屋敷までお連れするよう指示されています」

彼は隣に控えていた二頭立ての立派な馬車を示した。車体には王国の紋章と共に、狼を模した紋章も描かれていた。

「え?でも私、まだ王都にも着いていないのに...」

「情報を得て、途中でお迎えに参りました」

アルフレッドの言葉と態度には誠実さがあり、リリアは少し躊躇した後、彼について行くことにした。心のどこかで、王都の喧噪を経験せずに済むことへの安堵感も覚えた。

新しい馬車の中は、予想以上に豪華だった。「ありがとうございます」リリアはアルフレッドが差し出した水を受け取った。「あの、差し支えなければ...クラウス様について教えていただけませんか?」

アルフレッドは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。「クラウス殿は西方国境での戦いで王国を救い、わずか20歳で騎士団長に就任された方です。しかし一年前、西の『黒き森』から戻った後、特殊な症状に悩まされるようになりました」

「姉の手紙にあった『呪い』のことですね」

「そうです。日没後に奇妙な変化が起こるようで...団長は夕方になると姿を消し、翌朝まで誰にも会わなくなります」

「変化とは...どのような?」リリアは慎重に尋ねた。

「それは...」アルフレッドは言いよどみ、「クラウス殿ご自身から説明があるでしょう」

彼は話題を変え、騎士団の活動について語り始めた。しかし、リリアの心は「黒き森の守護者」の伝説に引き寄せられていた。

「屋敷は王都から離れた場所にあります。森に囲まれた静かな環境です」アルフレッドは説明した。

「団長という地位の方が、なぜそんな離れた場所に?」

「症状が始まってからのことです。約半年前に現在の屋敷に移られました」

「馬車の紋章の狼は...クラウス家の家紋なのですか?」

「ヴォルフガング家は古くから森と深い繋がりがあります。狼は忠誠と警戒の象徴として、代々の紋章となっています」

アルフレッドは真剣な表情でリリアを見た。「クラウス殿は危険ではありませんが...気をつけたほうがいいでしょう。特に、日没後は」

リリアはその警告に身震いしたが、薬師としての使命感から前に進む決意を固めた。彼女は母のペンダントを握りしめ、窓の外を見つめた。

騎士団長の屋敷到着

日が傾き始めた頃、馬車は森に囲まれた小高い丘の上に建つ屋敷に到着した。薄暗い森の中に浮かび上がる石造りの建物は、厳かな雰囲気を漂わせていた。窓の多くには重い暗色のカーテンが引かれ、人の気配をほとんど感じさせなかった。

屋敷の周囲には薬草園を含む美しい庭園が広がっていたが、やや手入れが行き届いていない様子も見受けられた。

馬車が砂利を敷き詰めた前庭に停まると、アルフレッドが扉を開けた。リリアは深呼吸して馬車から降り、屋敷を見上げた。暗くなりつつある空を背景に、窓から漏れる温かな明かりが彼女を迎えるようだった。

大きな正面扉が開き、二人の人物が出迎えた。一人は60代と思われる厳格な表情の執事、もう一人は16歳ほどの明るい表情の小間使いの少女だった。

「ようこそ、ハーブライト様」年配の執事が丁寧に一礼した。「私は当家の執事、ゲラルドと申します。こちらはマデリン、小間使いです」

「こんにちは、ハーブライト様!」マデリンは明るく挨拶した。

「お会いできて嬉しいです」リリアは微笑んだ。「リリア・ハーブライトと申します」

ゲラルドは驚きの表情を見せた。「シリル・ハーブライト様ではないのですか?」

リリアは姉の手紙を取り出し、説明した。「姉が急な用事で来られなくなり、私が代わりに参りました」

ゲラルドは手紙を読み、表情に懸念が浮かんだ。「少々お待ちください」彼は言って退室した。

マデリンがリリアを玄関ホールに案内した。高い天井と大きな階段、壁には古い肖像画が飾られている。特に目を引いたのは、階段の踊り場に飾られた大きな絵画で、森の中で黒い狼と向き合う若い女性の姿が描かれていた。それを見たリリアは、なぜか胸が締め付けられる感覚を覚えた。

「長旅でお疲れでしょう。お茶をお持ちしましょうか?」マデリンは尋ねた。

「ありがとう、頂戴できますか?」

一人残されたリリアは、静かにホールを見回した。

ふと、二階の廊下の奥から鋭い視線を感じた。振り返ると、薄暗い廊下の中に人影が見えた気がした。その瞬間、何かがゾクリと彼女の背筋を走り抜けた。見えた気がしたのは人間の姿とは違う、より大きく、より野性的な何かだった。彼女が息を呑んで目を凝らす間もなく、その影は消えていた。

しばらくして、ゲラルドが重々しい表情で戻ってきた。「申し訳ありませんが、主人は『シリル・ハーブライト以外は認めない』とのことです。ですが、もう日も暮れていますので、今夜はお泊まりください。明日、王都にお送りします」

リリアは落胆を隠せなかった。胸の内で怒りと悔しさが渦巻いた。姉の頼みで来たのに、こんな扱いを受けるなんて。

「分かりました。一晩の滞在をお許しいただけるなら」彼女は落ち着いた声で答えたが、内心ではあきらめていなかった。

ゲラルドはマデリンに客室への案内を指示した。「夕食は一時間後に用意します」

外は完全に暗くなり始めていた。ゲラルドは窓の外を見て、身を強ばらせた。「マデリン、急ぎなさい」彼の声には緊迫感があった。

客室に向かう途中、リリアは二階の廊下の奥から突然の気配を感じた。振り返ると、彼女は一瞬、廊下の暗がりに金色に光る一対の目を見た。その瞳から発せられる力強さと孤独に、彼女は思わず足を止めた。心臓が胸を突き破るほど激しく鼓動し、床を震わせる微かな振動が伝わってきた。

低く長い声が夜気を震わせ、胸骨に響くような遠吠えを感じたような…まるで大きな獣が彼女を見つめているような存在感だった。

「何か見えました?」マデリンが尋ねた。

「いいえ...気のせいかしら」リリアは答えたが、確かに何かを感じていた。彼女の首筋に生えた産毛が全て逆立ち、冷たい震えが背骨を伝って駆け下りた。

「こちらがお部屋です」マデリンは広々とした客室に案内した。

一人になったリリアは、ベッドに腰掛け、深いため息をついた。窓から外を見ると、庭園の向こうに広がる森が月明かりに照らされていた。銀色に輝く木々の間に、暗い影が動いているようにも見えた。

遠くから狼の遠吠えが聞こえてきた。それは悲しみを帯びた声でありながら、何かを呼びかけるような威厳も感じられた。リリアは不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、その声に引き寄せられるような気がした。

彼女は母のペンダントを握り、「何かがある...この屋敷に、そして森に」と静かに呟いた。

ペンダントは手の中で微かに温かくなり、彼女の指先に独特の処方が浮かんできた。月光草の青い光、セージの清めの力、そして母の書き記したことのない何か特別な調合法。まるで体が覚えているかのように、リリアの心に薬の完成図が鮮明に浮かび上がった。

ノートを閉じる彼女の指先はもう震えていなかった。室内の静寂に耳を澄ませながら、彼女は窓に映る自分の姿を見た。母のようにはまだ成れていなくても、確かに何かが始まろうとしていた。

そして彼女の知らないところで、屋敷の三階の一室では、何かが闇の中で静かに蠢いていた。再び視線を感じた。振り返ると、彼女は一瞬、廊下の暗がりに金色に光る一対の目を見たような気がした。その瞳から発せられる力強さと孤独に、彼女は思わず足を止めた。心臓が胸を突き破るほど激しく鼓動した。

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