一
「辞令、本日より
警視庁捜査一課の長たる捜査一課長こと入山より辞令を賜った三上は、深々と頭を下げて上質な絨毯を見下ろす。
耳障りの良いように聞こえてくる入山の声音は酷く淡々としていた。
そのように聞こえたのは、三上にとってこの人事がまさに「死刑宣告」であると解釈しているからかもしれない。
三上は、鈍色をした革靴の踵を鳴らす。
退室するまでの間、なんとか自分の体を御することだけで精一杯だった。
これが、つい先月まで第一線級の捜査を担っていた、自身の姿。
その事実が三上にとって何より屈辱的であり、腹の底に燻るあらゆる感情を打ち付ける楔となっていた。
この感情を一言で表現するのであれば「虚無感」であろう。
辞令を言い渡された時点で、自身の刑事としてのキャリアは確実に終わりを告げた。
それが徐々に自らの現実として降りてくる。
三上が自身の机に戻ってくる頃には、既に私物の整理された段ボールが鎮座していた。
これを持って、捜査一課を出る。そんな些細なことすらも、恐ろしいくらい長く感じてしまう。
室内には自らの仕事に打ち込んでいる刑事が大勢いた。
ほんの少し前までは同僚として肩を並べていた彼らの視線は、自らに向かうことなく、打ち込んでいる捜査の資料のみを映しているらしい。
三上など既に存在しないと言わんばかりの態度は、これまでの直属の上司である坂下警部も同じだった。
一瞥をくれることもなく、坂下は怒声を鳴らして捜査へと出ていってしまう。
何ら変わらない刑事としての日々が、これほどまで燦然と輝くなど、思っても見ない事実であると自覚させられる。
すべての発端は、三上の一人息子である結月(ゆづき)が、暴行の現行犯で逮捕されたことである。
現在この事件は捜査中であるものの、被疑者の近親者は事件の捜査に関わることは出来ない。
それに加えて警察として働く身の上で、近親者に逮捕者が出れば、それは「刑事としての死」を意味していた。
本来であれば、刑事を辞さなければならない状況。しかしながら現在、結月の一件は完全な収束がなされていないということもあり、即座に辞職となることはなかった。
それでも変わりなく刑事として捜査に携わることは難しいと判断されたらしい。
そのため、ある程度方向性が決まるまで、形のみ「左遷」として異動する事になったのだ。
左遷先は「捜査第一課包括強行犯捜査補助係」、通称では「補助係」と呼ばれる部署である。
刑事部で行っている強行犯捜査における、あらゆる事件の補助的な捜査および業務を遂行するための部署だった。
補助係は一般的な刑事としての仕事は殆どないと言われている。
未解決の事件資料の整理が基本であり、人員の不足が生じた時に特例として捜査権を与えられるものの、それも主導する班に一任されていた。
それはつまり、捜査権が与えられた事件であったとしても、あらゆる功績は主導する班に帰属するということ。
言ってしまえば、刑事としての優秀さを上層部へ示す材料のすべてが、別の者の手柄となるということだ。
刑事として研鑽を積み、圧倒的な縦社会でもある警察という組織に属していた三上にとって、それがどれほど異常なものかは理解に容易い。
完全な上下関係が生まれ、刑事として挽回の機会すら与えられていない完全な死。
三上が持っている知識において、補助係というものはまさにそういう部署である。
三上が最初補助係の存在を知ったとき、厳格な警察という組織に、こんなテレビドラマのような部署があるのかと訝しんだ。
しかし実際に、これほどまでに格式張った組織において、いわば「墓場」のような部署は、非常に都合の良い。
刑事として一定の力量を積んだ人間ではありながら、何らかの問題を抱えた人材はそれなりにいる。
そんな面々を、公の側面から宙に浮かせる事ができるという時点で、補助係は重要な意味があるのだろう。
邪推に邪推が広がった三上にとって、これから行く補助係の部屋は、まるで「この世の果ての荒野」というイメージだった。
そのイメージが先行し、私物の段ボールで両手が塞がった三上は、体で扉をこじ開けて補助係へと足を踏み入れる。
室内は真っ暗な資料室のようだった。捜査一課で働いていた身の上ですら入ったこともない辺境。そんな言葉がよく似合うと自嘲が浮かぶ。
同時に三上は思い知らされた。
頭の中で少しだけ、期待していたのだ。ドラマのような左遷部署ではなく、本格的な捜査ができる組織として必要な「補助係」を。
しかしながら、この部屋は三上が思い描く補助係は存在しない。あるのはカビと湿気にまみれた汚らしい資料室と、その一角に置かれた事務机。まさに左遷部署という言葉がピッタリな様相だ。
おまけにそこには誰もいない。現在時刻は既に九時を目前にしている。
こんな時間でも人がいないというのは、配置されている人材の気概も知れると、三上は息を吐く。
三上は半ば呆れながら適当に段ボールを机に置いた。
その時点で広がるカビっぽい臭いに顔を顰めていると、今度は自らが入ってきた扉が開け放たれる。
「おや、もしかして本日よりこちらに配属されることになっていた、三上警部補ですか?」
扉を開け放ったのは、補助係の者なのだろう。
三上がここに配属される事を知っており、丁寧にその確認を始めた。
声音は随分と穏やかながら、壮年としての熟達を感じさせる落ち着いたテノール。
声だけを聞き取った三上は、振り返って男の方を一瞥する。
するとそこには、声の印象からは随分と若々しく見えるスーツ姿の男が立っていた。
薄い茶髪の交じる髪色と、日本人にしては珍しい完全なブラウンの虹彩。見るだけで記憶に残るであろうその男の事を、三上は知る由もなかった。
三上が自身の記憶を弄るのと同時に、男は「失礼」と、両手を前で合わせて丁寧に頭を下げた。
「補助係で長を勤めています、
高峰と名乗った男。やはり三上の記憶にその男は存在しなかった。
しかしながら、一瞥するだけで、この男が実力者な事が伺える。
穏やかなのに、それでいて腹の中を探らせない底知れぬ雰囲気。
それを象徴するように、高峰は両手を皮手袋で覆い、肌の一つも露出させていない。刑事、というより多くの人間から見ても異様な佇まいだ。
しかしながら、それでも三上は腹の底を相手に悟られぬように、表情を崩すことなく頭を下げる。
「刑事部捜査一課より配属されました。三上です。本日よりこちらでお世話になります。高峰警部」
挨拶をそこらに、高峰は事前に入山捜査一課長より話を聞いていたようで、新しい机などの一式を用意していた。
三上はすぐに新しいデスクに自らの私物を整理しつつ、高峰に補助係について疑問を投げる。
「配属早々からこのようなことをお聞きするのは心苦しいのですが、こちらの部署では、捜査に携わることがないとお聞きしました。実際のところをお教えいただきたい」
話を聞いた高峰は表情一つ崩すことなく、「補助係の仕事はあくまでも、刑事部の補助です」と続ける。
「三上警部補であれば、事件捜査において、それを補助する人々がどれほどいるか、ご理解しているでしょう。我々はあくまでも捜査補助を中心に担っています。具体的な業務としては、過去の事件の洗い直しや、その情報の精査、緊急要請への対応と言ったところでしょう」
高峰の話を聞きながら三上は内心で、「やっぱり」と高峰へ嘲笑の眼差しを向ける。
自身の思っていた補助係。それ以上の感想が生まれることはなかった。
事件に対して積極的に関与する事もできず、資料整理が仕事の一環。
愕然とさせられる一方で、三上は自暴自棄となっている自身の感情に直面していた。
冷静になれ。
高峰が優秀な人物であることは間違いない。そんな人間が補助係にいるのだから、ここもきっと、警視庁の一角として恥じない仕事ができる。
今ある情報から三上は冷静な思考を心がけた。しかし糜爛した思考回路は、打ちのめされるように悪い方向へ流転していく。
このまま黙って話を聞いていると、ネガティブな感情が表に出てきてしまう。
三上はそれを恐れて、高峰に言葉を返した。
「そうですか。それで、俺は何をすれば?」
「えぇ。本来であればゆっくり部署に慣れていっていくのですが、少し状況が違いましてね。まさに今、刑事部よりとあるタレコミの調査を依頼されています」
「タレコミですって?」
「とはいっても、現状で有力なタレコミではありません。ですが、この情報で関与が疑われる事件があまりにも有名なんです。本来、刑事部では調べるに値しないものを調査する、それが目下の我々の業務です」
「はぁ……それで、その事件というのは?」
三上は性急に相手の言葉を待つものの、対して高峰はコピーされたとある手紙の一部を三上へと差し出した。
「そちら、二年前の都内で起きた行方不明事件、被害者宅へと届けられました。有名な事件ですから、三上警部補であればご存知かもしれませんね」
補足するような高峰の言葉と、手渡されたコピー用紙に薄く印字された文字を見て、三上は思わず顔を歪める。
関わったことはないながら、その事件は警察内部でも有名な未解決事件を想起するものだったからだ。
印字されていたのはたった一言。
「みねぎしりょうへい君をしっていますか?」と、一見すれば怪文書にしか見えない問いかけである。
手紙に書かれている人物は、都内で発生した「連続乳児行方不明事件」の最初の被害者だった。
時は二〇一五年十二月。
峯岸亮平は生後四ヶ月の時に、都内の「ひらさわ公園」で母親と散歩の際にて忽然と姿を消した。
ベビーカーで寝ていたはずの被害者が消えていることに、母親が気づいたのは午後三時四十七分。被害者の母親である秋江が公園脇のベンチでうたた寝をしてしまい、気がつくと息子である亮平がいなくなっていたという。
本事件は極めて珍しい「赤ん坊の行方不明事件」ということで、すぐに大規模な捜査線が敷かれる事となる。
幸い近くには監視カメラがあり、警察としてもすぐに犯人が検挙され、亮平が見つかると考えていた。
だが、そんな考えを嗤笑するように、亮平が見つかることはなかった。
そればかりか、監視カメラには奇妙な映像が、この件を混迷させる火種となる。
午後三時付近、秋江は近所でも付き合いのある保育園仲間との会話に花を咲かせていた。十分ほど会話をしたのち、秋江は「もう少し公園にいる」とひらさわ公園に残る選択を取ったという。
そこから秋江はベビーカーをベンチ脇に移動させるも、そこで強烈な眠気に襲われ、少し目を瞑る意味でベンチに腰を掛けた。
その姿を監視カメラは捉えており、座り込んだ秋江は、そこから三十分ほど眠りこけていた。
秋江が目を覚まし、亮平がいなくなって狼狽する瞬間まで、監視カメラは秋江とベビーカーを録画し続けていた。
にも関わらず、亮平が何者かに連れ去られる映像は、監視カメラに映し出されることはなかったという。
このあまりに気味の悪い行方不明事件に、警察では「神隠し」という非現実的な話をする人間も顕れるくらいだった。
警察は被害者遺族と協力し、大規模な捜査を継続するも、犯人の足がかりは一向に掴むことが出来ず、捜査規模は徐々に縮小。
あまりの進展のなさから、挙句の果てに「秋江の自作自演では?」という心無い言葉も飛び出る始末だった。
しかし、そんな状況は瞬く間に一変する。
それが、第二の事件が発生した事だった。
二〇二四年十一月。約九年という歳月を経て、峯岸亮平誘拐事件を彷彿とさせる奇妙な事件が発生する。
被害者は井阪博文(いさか ひろふみ)。峯岸亮平のときと同様に乳児であり、生後九ヶ月に行方不明となった。
都内のスーパーである「あすなろマート」にて事件は起こる。
母親である凪咲(なぎさ)とともに買い物をしていた最中、事件は起こった。
商品を会計した後、店内は酷く混雑していたという。そんな忙しい折に、ベビーカーで眠っていた博文が泣き出してしまい、凪咲は酷くパニックになってしまった。
けれど周囲の家族連れの母親にあやしてもらうなどの力を借りて、なんとかその場をやり過ごすことが出来たという。
やっとの思いで買い物を終えた凪咲は、店の外で買い忘れを確認するとともに、博文の様子を一瞥する。そこにいたはずの博文の姿はなく、空っぽのベビーカーだけを握りしめていたという。
この二つの事件は「赤ん坊がいなくなった」ということ以外にも、神隠しを彷彿とさせる奇妙な行方不明の状況から、何かしらの関係が疑われた。
結果としてこの二つの事件は、同一犯のものとして取り扱われ、「都内乳児連続行方不明事件」として捜査の網は広げられる。
これにより警視庁は、事件が起こった所轄にて特別捜査部を立ち上げるなど、活発な捜査が再開される事になった。
だが、にもかかわらず事件は再び暗礁に乗り上げ、現在に至るまでも捜査が断続的に続いている状態だ。
そんな膠着状態の中、三度事件が起こる。
事件が起こったのは二〇三八年。最初の事件が発生してから実に二十三年の月日が経過した頃にして、現在から二年前に起こった行方不明事件である。
被害者は波葉隆一(なみば りゅういち)。これまでの被害者と同様に乳児であり、生後七ヶ月の十二月の出来事だった。
隆一の母親である詩織(しおり)は、自宅前で隆一と出かけようとしていた。そんな中、乳母車を押した近所の壮年の女性と話に花を咲かせていたところ、自宅のリビングから凄まじい警笛が聞こえてきたという。
これは家屋に向かって野球ボールが投げ入れられたことで、リビングの窓ガラスが破損。
それが契約していた警備会社の警笛を鳴らすきっかけとなった。
詩織は、その場で付き合いのあった壮年の女性に隆一を見ていてほしいと頼み、自宅の中を見に行くが、そこで事件が発生する。
壮年の女性の悲鳴とベビーカーが倒れる音が聞こえ、詩織は我先にと自宅の前に出ると、乳母車に掴まって震える女性が「男が、隆一くんを連れて行った」と証言し事件が発覚。
乳母車を押す女性は警察でも事細かく事件について証言し、事件解決に寄与しようとするも、事件は何の進展もせず、二年の月日をいたずらに過ごすこととなった。
ある程度の事件概要を逡巡した三上は、振り返ってコピー用紙に視線を落として、「一体これは?」と高峰へ説明を求める。
「実はそれが、一週間前に匿名で届けられたんです。最後の被害者宅である、波葉家に」
三上はその言葉にほんの僅かな沈黙を向ける。
一連の不可解な行方不明誘拐事件、二五年も前の最初の被害である「峯岸亮平」の所在を尋ねる文章。それが理由も分からぬまま、最後の被害者「波葉家」へと投函された。
この事実だけで、手紙が事件に関係していることを示唆している。
しかしながら、そんな事をするメリットなどあるのだろうか。もし仮に、事件関係者がこの手紙を投函したとして、得をするものは普通に考えて存在しない。
被害者側の人間であれば、捜査を撹乱するだけであるし、加害者側の人間であれば余計な事をして墓穴を掘るリスクを避けるのは当然の考え方だ。
にも関わらず、本来考えられない手紙が投函された。
三上は漸くこの状況と、補助係の役割を理解する。
確かにこの件は不可解であり、何かしら事件に関係があることは確実だ。しかしそれを、警視庁捜査一課の誰が担当して調べることはありえない。
そもそもこれは、誰かの悪質な嫌がらせという可能性をいまだ抜けきらない。それでも注目度の高い事件であることから、無視して捨て置くことも出来ない。このジレンマを解消するための一案が、「補助係が調査をして真偽を判断する」ということなのだ。
三上は首を縦に振って高峰へ、「これを調べるんですね」と問いかける。
当然のように高峰は笑みを浮かべ、「その通りです」と肯定した。
同時に三上は、補助係というものに対してのネガティブな感情が、ほんの僅かだが鳴りを潜める。
今まで自分が携わってきた事件は、「叩けば必ずホコリが出る」ものばかり。それ以外の情報は、自らの耳にも届かない有象無象。そうだと思い込んでいたのだ。
しかし蓋を開ければ、刑事として現場に立っていれば捨て置く内容のことでも、疑問を持つ余裕が生まれる。
そういう疑問符を潰すことも、「補助係」が担っていると思うと、少し捉え方が変わってくる。
それでも、三上にとって「補助係」は墓場であるという考えは変わらない。
けれどもほんの僅かに、三上の行動指針の琴線に触れることは確かだった。
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