在りし日々の憧憬たちへ

古井雅

はじまり

都内連続乳児行方不明事件について


 東京都にある一式丘は、比較的裕福かつ安定している住宅街が並ぶ。

 そこに居を構えていた波葉家は、二年前に起きた忌々しい事件のことを未だ追っていた。


 月日は虚しく流れ、波葉詩織はようやく授かった一人息子への想いは募る一方。

 同時に自らが犯した過ちを悔いるという地獄のような日々を過ごす毎日だった。


 そんな妻を見ることが耐え難く、また犯人への憤りを隠すことの出来ない波葉秀はというと、仕事を続ける傍ら必死に事件を追う毎日。

 無情にも、警察すら追い詰めることの出来ない事件の犯人を素人が見つけ出すことなどできそうにない。

 執念こそあれど、手段に乏しく人材もいない被害者遺族は、自分たちの為す術のない状況に辛酸を嘗めるばかりである。


 しかし、ある日止まっていた事件が動き出す音がした。

 あくまでもそれは、完全に停止した時計の秒針が、僅かばかりの音を奏でて蠕動する程度のか細いもの。


 これから先に事件の進展が訪れるかはまさに「可能性の域」を出ないものだ。

 それでもようやく事件に何かしらの動きがあったことに驚嘆に波葉家は湧き上がる。


 手紙が届いたのだ。


 差出人も書かれていない歪な手紙。

 人の手で書かれているものの、その文字は歪だった。どうやら、定規を使って直線で書かれているのだろう。

 そんな奇妙な文字で便箋に刻まれていたのはただ一言。


 「みねぎしりょうへい君をしっていますか?」


・峯岸亮平


 二〇一五年十二月七日、峯岸亮平(当時生後四ヶ月)の誘拐事案が発生。


 東京都平沢町二の一にある「ひらさわ公園」にて、生後四ヶ月の峯岸亮平が忽然と姿を消した。

 母親である秋江が「ひらさわ公園」で母親友達と話をしていた後、ベンチで休んでいたところ、普段の過労から眠りこけてしまう。

 ものの十数分程度の間、被害者が眠っていたベビーカーは監視カメラに捉えられていた。

 その間、監視カメラは変化のないベビーカーと眠る秋江のみを映しており、誰一人としてベビーカーに近づくものは確認できなかった。


 にも関わらず、ベビーカーで眠っていたはずの峯岸亮平は不可解に姿を消す。

 映像には狼狽する秋江のみが残されていた。


 警察はこの事件を「誘拐事件」として捜査され、辺り一帯を閉鎖したうえで大規模な捜査本部が立てられる。

 しかし事件捜査はすぐに、暗礁に乗り上げた。

 その最大の原因は、捜査線上において被疑者に相当する人物が出てこなかったことである。


 誘拐以降、犯人が被害者家族に接触することもなく、金銭目的ではないと判断された。

 監視カメラの映像も、聞き込みでも、不審な人物は見つからず、事件は手がかりのないまま捜査が継続する。

 この事件そのものが、あまりにも奇妙なことに加えて「乳児の行方不明」というセンシティブな事実。

 それ故、事件は注目度の高いものとしてあり続けた。


 それでも、この事件は関連の疑われる九年後の行方不明事件の発生まで、断続的な捜査が続けられる事となる。



・井阪博文


 二〇二四年年十一月十九日、井阪博文(当時生後九ヶ月)の誘拐事案が発生。


 東京都久慈町一三の七にある「あすなろマート」にて、過去の事件を彷彿とさせる事案が確認される。

 母親である井阪凪咲(いさか なぎさ)がベビーカーから目を離した一瞬の出来事だった。それまでベビーカーにいたはずの博文は、衣服を着せられた人形へとすり替えられていたという。


 峯岸亮平失踪事件と類似点が多く見られ、誘拐後の身代金の要求もなく、その後の消息は一切不明。

 事件当時に不審者及び車両の確認も出来なかったことから、同じように捜査は暗礁に乗り上げる。

 それでも、九年前に発生した事案と酷似した展開から、捜査の裾野は大きく広げられる結果となった。


 そんな対応をした警察を嘲笑するように、事件の進展は生まれない。

 座礁したまま進む捜査の手は、少しずつ薄くなっていく。

 被害者遺族の想いも虚しく、事件から十年が経過する頃には、ほとんど捜査の進展はなくなっていた。


 乳児を対象とする不確定性の強い犯行や現場に残された情報の弱さ。

 有力な手がかりは掴めず、また犯行が金銭目的ではないということも手助け、その後の被害者の動向も今なお掴めていない。


・波葉隆一


 二〇三八年十一月二十三日、波葉隆一(当時生後七ヶ月)の誘拐事案が発生。


 事件は被害者の母親である詩織(しおり)が、隆一を連れて外出する直前だった。

 詩織は外出の前に、近所付き合いのある壮年の女性と会話をしていた。

 そんな時に、ガラスの割れる音がしたという。詩織が自宅を確認するため、女性を残したまま、ほんの数分ベビーカーから目を離してしまう。


 玄関から戻ると同時に、壮年の女性は倒れており、空っぽのベビーカーだけが残っていた。

 すぐに警察を呼び女性へ話を聞いたところ、不審な男が赤ん坊を連れ去ったと証言。その証言を元に再び事件は動き出す。

 過去の事件と類似性は乏しいものの、同じ乳児の失踪事件。そのことから、本件は過去の二件の事件に関係があるとして判断される。


 捜査の結果、自宅に投げ込まれたボールは、近くの空き地でベースボールをしていた子どもたちが原因だった。

 事件との関連性はないと判断されたものの、一方で証言にあった不審な男は発見できず、捜査は案の定、進展することはなく、現在に至る。


 この事件の被害者である波葉家は、今なお息子の隆一のことを探すため、警察に通い詰めているという。

 しかしながら、現在二〇四〇年時点で、当該事件は未だ捜査中につき、新たな進展は見られない。

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