第25話 秘密
「リゼット、持ち方に気をつけたほうがいい。皿を落とすぞ」と俺は言った。
「わ、分かってますわよ! このくらい、わたくしにだって……!」
昼下がりの「木漏れ日の止まり木」に、リゼットのやや甲高い反論が響いた。
件の詐欺師騒動から数日。
リゼットは、以前のふんぞり返った態度はどこへやら、妙にしおらしくなってカフェの仕事を手伝う、と言い出したのだ。
とはいえ、これまでロクに働いたことなどないであろう貴族のお嬢様だ。
その手つきは危なっかしく、今にもコーヒーカップを載せたソーサーが派手な音を立てて床に散らばりそうだった。
俺もカウンターの奥からハラハラしながら見守るしかない。
「リゼット様、脇を締め、もう少し体幹を意識して運んでみてはいかがでしょう。お皿は体の中心で支えるイメージで」
すかさず、カウンター席で帳簿を眺めていたノエルが穏やかな口調でアドバイスを送った。
流石は元情報分析官、観察眼も的確なら指示も的確だ。
「なっ……わ、分かっていますわよ、そのくらい! アリアに言われるならまだしも、あなたにまで指図される覚えは……!」
リゼットは顔を赤くしてノエルに噛みつこうとしたが、アリアの「まだ言うか」と言わんばかりの冷たい視線に射抜かれ、慌てて口をつぐむ。
そして、不承不承といった体でノエルの助言通りに体勢を整えると、幾分か安定した足取りで客のテーブルへと向かった。
まあ、それでもぎこちなさは残っているが。
俺はカウンターの中からその様子を苦笑しながら見守っていた。
あの事件は、リゼットにとって相当な衝撃だったらしい。自分の世間知らずを痛感し、俺が「元騎士」だという事実――まあ、正確には「元特務部隊長」だが――を改めて認識したことで、俺に対する見方もだいぶ変わったようだ。
もちろん、すぐに素直で従順なお嬢様になったわけではない。
プライドの高さは相変わらずだし、言葉遣いも以前と変わらずトゲトゲしい。
だが、以前のような明確な見下した態度は消え、不器用ながらも周囲に馴染もうとし、何か役に立とうと努力しているのは見て取れた。
掃除を手伝おうとして箒を振り回し埃をまき散らしたり、お客に愛想よく挨拶しようとして引きつった笑顔になったりと、失敗も多いのだが。
そんな変化は、夜にも現れた。
数日前、俺が寝る前に少し中庭の空気を吸いに出た時のことだ。
月明かりの下、リゼットが一人、ベンチに座って俯いているのを見かけた。
声をかけようかとも思ったが、彼女はひどく思い詰めた様子で、何事か小さく呟いている。
「……どうして……お母様……わたくしは、どうすれば……」そんな断片的な言葉が、夜風に乗って微かに聞こえてきた。
その横顔は昼間の勝ち気な少女とはまるで別人のように儚げで、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
結局、俺は声をかけることなく、そっとその場を離れた。
彼女が抱える問題に、俺が踏み込んでいいものか、判断がつかなかったからだ。
そして今日、その疑念を深める出来事が起こった。
昼過ぎ、行商人のマルコさんが帝都からの郵便物をいくつか届けてくれた。
その中に、一通、リゼット宛の手紙があったのだ。
差出人は不明だが、帝都の有力貴族のものと思われる紋章が蝋で封をされた、見るからに立派な封筒だった。
「リゼット、手紙だ」
俺が手紙を渡すと、リゼットは一瞬、不思議そうな顔をしたが、封筒の紋章を見た途端、さっと顔色を変えた。
それは驚きというよりも、むしろ怯えに近い表情だった。
彼女は震える手で手紙を受け取ると、慌ててそれを自分の部屋に持ち帰ってしまった。
「……どうやら、ただの『社会勉強』というわけでもなさそうですね、マスター」
一部始終を見ていたノエルが、片眼鏡をくいと上げながら静かに呟いた。
その瞳には、いつもの冷静さに加えて、わずかな憂慮の色が浮かんでいるように見えた。
俺も同感だった。
元帥閣下がリゼットを俺の元へ「預けた」のは、表向きは世間知らずな孫娘に社会経験を積ませるため、ということだった。
だが、今のリゼットの様子を見る限り、それだけが理由だとは到底思えない。
リゼットが部屋から出てきたのは、それから三十分ほど経ってからだった。
その顔色はまだ少し悪く、目の縁がうっすらと赤くなっているようにも見えた。
手紙の内容は、やはり良くないものだったのだろう。
「……別に、なんでもありませんわ。ただの、故郷からの便りですもの」
俺たちの詮索するような視線に気づいたのか、リゼットは努めて平静を装ってそう言ったが、その声は微かに震え、言葉とは裏腹にぎゅっと拳を握りしめていた。
アリアはそんなリゼットを一瞥したが、特に何も言わず、黙々とカウンターを拭いている。彼女なりに、何かを感じ取っているのかもしれない。
カフェの仕事に戻ったリゼットは、相変わらずどこかぎこちなかったが、それでも黙々と手を動かしていた。
俺は、リゼットが抱えるであろう「秘密」について、これ以上深入りするつもりはなかった。彼女が自ら話さない限りは。
元帥閣下なりの考えがあってのことだろうし、何より、今のリゼットに必要なのは、詮索や同情ではなく、安心して過ごせる「居場所」のはずだ。
たとえそれが、かりそめの平穏であったとしても。
この「木漏れ日の止まり木」が、たとえ一時的にでも、彼女にとってそういう場所になればいい。
俺にできるのは、その手助けをすることくらいだ。
かつて俺自身がそうであったように、誰にでも、息をつける場所は必要なのだから。
「さて、そろそろ夕食の準備でもするか」
俺が努めて普段通りの声を出すと、リゼットはびくりと肩を揺らしたが、やがて小さな声で呟いた。
「……野菜の皮むきくらいなら、手伝って差し上げてもよろしくてよ?」
その言葉は相変わらず高飛車だったが、顔を上げた彼女の瞳には、ほんの少しだけ、安堵のような色が浮かんでいるように見えた。
帝都からの手紙がもたらした一抹の不安を胸の奥にしまい込み、俺はリゼットにジャガイモの皮むきを頼むことにした。
もちろん、隣には見張り役としてアリアについてもらって、だが。
この穏やかな日常が、いつまで続くかは分からない。
だが、今はただ、この不器用な少女が少しでも心安らげるように、静かに見守っていこう。
それが、今の俺にできる、唯一のことなのだから。
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【★あとがき★】
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