第9話 異次元
最近、空気がジメジメしだした。関東圏の梅雨入りはまだだけど、どんよりした雲が空を覆う日が増えてきている。
空模様と同じで、幼馴染の機嫌も下降気味だ。
湿気が多いと茶色まじりの長い黒髪がうまくまとまらないらしく、セットに時間がかかってしょうがないと、ロボミはぼやいていた。
ロボミが
一週間ぶりの登校日の今日、体育の授業で体力テストがあるせいだ。
「体でも動かして、気分が晴れるといいね」
通学中、沈んでいる様子――と言っても普段と同じ無表情なのだけれど――ロボミに対して、俺はあえて気楽に言った。
「……運動は嫌いです」
そう言いながら、ロボミは自転車を軽快に走らせていく。
彼女のスピードについていくために、俺は少し本気で自転車をこいで、息が上がりかける。
ロボミは汗一つかいていない。
「運動得意じゃん、ロボミ」
効率的に生きることを目標にして、常に丁寧口調で、自称インドア派のロボミだけど、その実、たぐいまれな運動神経を持っていた。
中学校に入学した後、毎年行う体力テストの全項目で、ロボミは全国女子中学生の記録を更新し続けている。
習慣的に運動しているわけでもないのに、男子すら凌駕する結果をたたき出す彼女の運動能力は、異次元だ。
「得意なことを必ず好きになるとは限りません」
「それは、まあ、そうだろうけど……」
そんな会話をしていたら学校に到着した。
曇り空の下、駐輪場に自転車をとめ、俺たちは下駄箱に向かう。
学校での部活動全般が廃止された代わりに、それらは外注化され、いろんなユースクラブが生まれた。
サッカー、バスケ、陸上、柔道、エトセトラのクラブのトップチームから熱心に勧誘されるほど、ロボミのずば抜けた運動能力は認知されていた。
いわく、とある中学校に世界を狙える純生体の女子中学生がいる、と。
バイノイドに代表されるテクノロジーの進歩で、顔を整形する感覚で体の機能にも手を加えられるようになった。
それでも、いや、それだからこそ、テクノロジーによる改良が加わっていない自然なままの肉体――純生体を尊ぶ思想は根強い。
その最たる例が、野球や陸上競技といった伝統的なスポーツだ。
スポーツ界は、特に、人体強化の有無が重要視――または神聖視されている。
何らかの人体強化手術を受けると、
オリンピックがまさにそうで、伝統ある競技大会は、いまだに純生体のみの開催にとどまっているものが多い。
現代では、ドーピングの検査と合わせて人体強化検査も厳正に行われる。
二年前には、事故で視力を失ったクレー射撃選手の男性が、再生医療手術で視力を取り戻したことにより、副次的に動体視力なども著しく向上してしまい、オリンピックの選考会の時点で史上最高記録を叩き出し、物議をかもした。
最終的に、その記録は純生体の記録としては認められず、その男性はオリンピック参加の道を断たれた。
バイノイドに至っては、当たり前のようにオリンピックの参加権がない。
伝統を守るべきか、現状を変えるべきか、変えるとすればどう変えるべきか――議論が議論を呼び、結論はまだ出ていない。
スポーツのフェアネス精神や美学は、テクノロジーの進歩に人の価値観のアップデートが追い付いていない領域のひとつだ。
四月に、ロボミが放課後残っていたのは、名門女子サッカークラブチームから特別待遇での入団をオファーされていたからだ。
人間教師とAI教師の強い勧めもあったらしい。
それをロボミは、一も二もなく断っている。
「望んでいない才能に恵まれるのは、自分にとっても、他人にとっても、不幸なことだと思います」
下駄箱で上履きに履き替え、俺の後ろから階段をのぼってきたロボミは、自身の豊かなバストに手を当てながら、自嘲気味につぶやいていた。
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ユサの衝撃的な提案のあと、一週間ぶりに現実で顔を合わせる俺たちは、表面上は普段通りだった。
でも、どこか、何か、具体的に言えないけど、ぎこちない気がする。
仮想現実で冗談まじりに話題にすることはあったけど、やはり本当の
バイノイドの男性教師が、号砲とストップウォッチ左右の手に持って離れたところにいた。
運動場には、拡張現実で長方形や扇形のラインが表示されている。
今、ロボミがスタートラインに立った。
「位置について、よーい――」
ロボミはスタンディングスタートの姿勢をとる。
「あ」の氏名からはじまる出席番号順で測定していくため、「ろ」のロボミは最終走者となる。
先に走り終わっていたクラスメイトたちは、俺以外全員、固唾を呑んでロボミの様子を見守っていた。
張り詰めた空気の中、号砲が鳴る。
間髪入れず、ロボミの長身が躍動する。
一瞬にも思えるような速さで、ロボミは五十メートルを走破した。
「ミコトさん、五秒九五です」
「はぁ……はぁ……はい……」
四角四面な性格のロボミは、運動は嫌いと言いながら、好き嫌いで手を抜くような真似はしない。
尊敬する優秀な両親に失望されないように、いつも真剣に授業に取り組んでいる。
そのために、というか、そのせいで、彼女のポテンシャルは白日の下に晒される。
「……五秒九五って……オレ、六秒五〇なんだが……」
そう言ってミズキは苦笑した。
ミズキのタイムも、決して遅くはない。
「……日本陸上競技連盟の公式サイトにある純生体の女子五〇メートル走、二一二五年現在の最高記録が、六秒一九」
それをネットで調べたフミオが、珍しく驚きの感情を表に出していた。
「た、たしか、陸上競技の手動計測は、記録に何秒かプラスするんじゃなかったっけ……?」
「〇点二五秒プラスするのが一般的らしい、けど……」
ユサの指摘にノアが答える。
補足説明すると、重心移動しやすいスタンディングスタートの手動計測と、完全静止が求められるクラウチングスタートによる電子計測では、零コンマ何秒かの誤差が出る。
直感的に、後者の方が正確で速いタイムが出そうに思うけど、実際はその逆で、誤差により速い記録が出やすいのは前者――手動計測の方だった。
手動計測の場合、スタートの号砲と同時にストップウォッチを押し、ゴールラインを越えたときに目視でストップウォッチを止めるという、人間の反応時間――平均〇点二秒程度――が加味され、それが実際の走行タイムより速い結果になりやすいのだ。
一方、電子機器によるクラウチングスタートの計測は、スタートブロックにある圧力センサが選手の動きを感知して開始され、ゴールラインの赤外線を通過した瞬間に終了するため、ほとんど誤差が出ない。
機械の厳密性が、人の手による計測よりも遅い結果になるという事実は、なんだか直感と一致しない、面白い例だと思う。
「〇点二五秒足しても六秒二〇……正確じゃあないにしろ、日本記録に〇点〇一秒まで迫る女子中学生って……」
そう言うノアは頬を引きつらせていた。
幼馴染の俺はと言うと、全力で空を見上げたまま固まっていた。
走り、弾み、揺れる、大きな彼女の胸に視線を奪われないよう、対策したのだ。
本当に、俺の幼馴染の身体能力は異次元だと思う。
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