第1章 少女ルーナヴィーク

 それから何日か経った後、インゲルの話は町中に広まっていました。きっと、フギンかムニンが飛び回って、言いふらしたのでしょう。

 ところで同じ時、同じ場所に、インゲルと同じくらいの年の少女がいました。少女はルーナヴィークといい、インゲルと同じくらい美しい姿をしていました。

 ある日、ルーナヴィークは市場マルカズルへ買い物にきていました。

「おばさん、こんにちは。塩漬け豚肉の塊、銀一エイリル分ほしいんだけど、ある?」

「あいよ」

 おばさんは仔豚の肉を丸ごと一匹分くれました。ルーナヴィークは細い銀の腕輪を渡しました。

「ずいぶん重いけど、大丈夫かい?」

「大丈夫、そりで運ぶから」

「そうかい。いつもお使い、偉いねえ」

「そうでもないよ」

 ルーナヴィークは真っ白な頬を、少し赤らめて言いました。

「母さんも、私も、弟も豚肉の煮込みソズが好きなんだ。父さんは魚しか食べないけど」

「まだ小さいのに家族のために頑張って、おばさん、感心するよ。

 ああ、あの子もルーナちゃんみたいにお利口だったら、あんなことには……」

「あの子って?」

「うちの馬鹿な娘のことさ。

 この前オーディン様の神殿にパンを持っていくよう言ったのに、水たまりにパンを置いて、踏んで歩いたんだ。自分の靴を汚さないためにね。

 そのせいでオーディンさまの怒りを買い、ニヴルヘイムへ落とされちまったんだよ」

「娘さんの名前は?」

「インゲルさ。豊穣の神フレイ——つまりイングヴィ・フレイさまから名前をもらって、そう名付けたんだけどね。

 実り豊かな人生を送って欲しくて名付けたのに……全く情けない話さ」

 インゲルのお母さんは苦笑いして言いました。ルーナヴィークは神妙な顔をして言いました。

「これ、おばさんにあげる」

 インゲルのお母さんの手に差し出されたのは、赤く透き通った小さな石でした。石には文字が刻まれています。

「まあ、こんな綺麗な石、良いのかい?」

「うん。イングワズのルーンストーン。お守りに持ってて」

「ありがとう、ルーナちゃん」

「それじゃ、またね」

「気をつけて帰るんだよ」

 インゲルのお母さんに手を振って、ルーナヴィークは歩き始めました。帰り際に、市場マルカズルでパンを買うのを忘れずに。


 ルーナヴィークは家に帰って、お母さんに豚肉を渡しました。

「今日は、ちょっと遅くなるかも」

「夕飯までには戻るんですよ。今晩は豚肉の煮込みソズですからね」

「わかってる。

 ところで、このパンはオーディンの祭壇に捧げるんだよね?」

「そうですよ。くれぐれも落としたり、まして踏んだりしてはいけませんよ。カラスたちの噂を聞いたでしょう? お前までニヴルヘイムに落とされたら、私は生きていけないわ」

「大丈夫だって」

 いってきます、と言って、ルーナヴィークは家を出ました。銀色の長い髪を、ゆらゆらはためかせ。


 しばらく歩くと、ルーナヴィークはオーディンの神殿の前に着きました。そして、歌を歌い、踊りを踊り始めました。


「ウルドの泉に来てごらん

 ユグドラシルの根っこに向けて

 女神が水やりしているよ

 あんまりたくさん やるものだから

 空の上から ざあざあざあ

 雨が落ちるよ ほら ざあざあ」


 すると、たちまち空が曇り始め、雨が降りだしました。雨は後から後から降り続け、やがて水たまりができました。

 ルーナヴィークはオーディンの祭壇にパンを持っていこうとしました。しかしその時、手をすべらせて、パンを水たまりに落としてしまいました。

「しまった!」

 ルーナヴィークはがっかりしてみせました。

「……でも、まあ、いいか。パンは他にもあるし、食べるのはオーディンだし。そうだ、ちょうど良いからパンをふんで水たまりを渡ろう。そのまま歩いたら、靴が汚れてしまうからね」

 そう言って、ルーナヴィークはパンをふみました。

 その時です。ルーナヴィークの頭の上に黒い雲がもくもくと現れました。そして黒雲から、男の声が聞こえました。

「数日のうちに、不届き者が二人も出るとは……まあ良い。


 傲慢な娘、ルーナヴィークよ。

 お前は私に捧げられるパンを汚した。

 その罪の重さで、暗き国ニヴルヘイムの底に沈むがよい。

 恐ろしき死者の岸と呼ばれる、ナーストレンドの館で、

 蛇たちに血をすすられるがよい」

 インゲルが聞いたのと、同じ声が響きました。黒雲はたちまち大きくなり、ルーナヴィークに雷を落としました。ルーナヴィークは男の言葉の通り、水たまりに沈んでいきました。それきり、ルーナヴィークの姿は見えなくなりました。

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