第3話 クドラクの襲撃

「ひゃあっ」


 足がすくみ、動けなくなる。駿君は後ろを振り向くと、シャツの胸ポケットから何かを取り出した。

 銀色に光る小さなナイフだ。それを影に向かって切るように振る。影はナイフをかすめ、空へ向かって垂直に飛んで行った。


 彼が私の肩に手を置き、呟く。


「花菜、『ヘリオトロープ』だったのか」


 いきなりの言葉に戸惑う。空を見上げると、紅い視界の中、影が様子を窺うようにぐるぐると飛んでいた。

 心臓がばくばくと音を立て、指先が冷たくなる。


「なに、あれ……」

「大丈夫。《奴》は少なくとも状態でいる限り、花菜に取り憑くことはできない。でも」


 改札からぱらぱらと人が出てくる。駿君は少し目を細めた。


「あいつに見つかると厄介だ。逃げよう」


 影が建物の三階くらいの高さまで降りてきた。また来るか、と思ったが、そのままゆっくりと漂いはじめる。

 駿君が私の手を握った。影の様子を窺いながら、そろそろと移動する。そしてコンビニと不動産屋に挟まれた細い道に入った途端に、全速力で走りだした。


 手加減なしの「男子の全速力」だ。私は走るのが遅い。普段なら、すぐに転倒して引きずられてしまうだろう。

 だが。


 駿君と並んで走る。重いはずのリュックが背中でリズミカルに揺れている。

 体が軽い。脚に羽が生えたようだ。ぐっと体を傾けて速度を上げ、駿君を引きずるようにして走る。

 狭い路地を何度か曲がる。気がつくと、人通りがほとんどない住宅地にたどり着いていた。

 空を見回しても、影の姿はどこにもない。


 ふう、と大きく息を吐く。

 視界から紅色が薄れ、オレンジ色の光が戻ってくる。

 それと同時に心臓がドカドカと暴れまわり、全身からどっと汗が噴き出してきた。

 ついさっきまでの軽やかさが嘘のように体が重い。駿君の手を離し、その場でへたり込んでしまう。

 

 いったい、何。

 さっきの黒い霧は何。視界が紅くなったのはなんで。どうして速く走れたの。


 彼は膝に手をつき、肩で大きく息をしながら私を見た。


「も、もう、奴をけたと、思う。ああ、はあ、うん、『ヘリオトロープ』って、凄いんだな」

 

 崩れるようにへたり込む。通りすがりのおじさんが、嫌なものを見るような目を向けてきた。確かに道の真ん中で座っていたら邪魔だし、変だろう。二人で這うようにして道の端に移動する。

 少し心臓が落ち着いてきた。苦しそうな息をする駿君に声を掛ける。


「ねえ、さっきの黒いモヤモヤしたやつが何か、知っているの」


 彼は額の汗を拭い、顔を上げた。


「『クドラク』」


 聞いたことがない単語が駿君の口から出る。私が首をかしげると、彼は息をひとつつき、少し考えるようなそぶりを見せた後、口を開いた。


「いわゆる『吸血鬼』のこと」

「吸血鬼? え?」

「うん。『クドラク』っていうのは、スラブ地方に伝わる吸血鬼の呼び名なんだけど、が『クドラク』って呼んでいるやつは、創作や伝承の世界の吸血鬼とはちょっと違う」


 いきなり話がファンタジーっぽくなってしまい、頭が混乱する。

 でも、まずは聞かないと。それがたとえどんなに受け入れがたい話であっても。

 駿君は、この状況で適当な作り話をする人じゃないし、黒い霧は確かに存在したのだから。

 彼は小さなナイフを鞘みたいなものに納め、言葉を続けた。


「現実のクドラクの本体は、さっき見たように『体』を持っていない。だから怒りや悲しみを抱えた人間の、魂の隙間に取り憑くんだ。そして取り憑かれた人間は、人を襲って血を吸うようになる」

「えっと、えっと、じゃあクドラク本体は、おばけみたいなもので、取り憑かれた人間は吸血鬼に変身しちゃう、ってことなの」

「変身する、というか支配される、って感じかな。そして俺は」


 そこで言葉を切り、周囲を見回した。

 ゆっくりと立ち上がる。


 夕焼け色の細い路地。民家。きれいに並べられた植木鉢。暑そうに汗を拭くサラリーマン風の男性。

 男性と目が合った。へたり込んでいる私を見て少し笑う。やだ恥ずかしい、と思って立ち上がると、男性は私の方へ駆け寄ってきた。

 駿君の方を少し見てから、心配そうな目で私を見る。


「大丈夫ですか。具合悪いんですか」

「あ、いえ、その」


 道端で大汗かきながらへたり込んでいれば、具合が悪いと思われるだろう。適当な言い訳を考えていると、男性は私に手を差し伸べてきた。


「そっちの日陰で少し休みましょうか。あ、お兄さん、救急車呼んでくれるかな」


 走り疲れただけなのに、救急車なんて呼ばれたら困る。言い訳の内容が頭で固まる前に、とりあえず口を開いてみた。

 だが、言い訳は口から出てくることはなかった。


 駿君が男性を睨み、ナイフを鞘から取り出す。

 男性は舌打ちをした後、駿君の方を向いた。


「ツイてねえや。せっかく『ヘリオトロープ』が見つかったってえのに、『クルースニク』がセットでついてきやがった」


 駿君と男性の間に、びりびりとした空気が漂う。私はゆっくりと後ずさり、駿君の方へと移動した。

 男性の口角が吊り上がり、歪んだ笑みを見せる。


「お前、新米のクルースニクだろ。よく俺に気づいたな。でも、どうだ、怖いよな。人を刺すんだぜ。無理だよな」


 そう言い終わらないうちに駿君へ襲い掛かる。駿君が身をかわすと、男はバランスを崩してよろめいた。だがすぐに体勢を立て直し、構えの姿勢を取って口を大きく開けた。

 口から覗く白い牙が光る。


 再び駿君に向かってくる。駿君は私をかばうようにして身構え、ナイフを男へ突き出した。

 男が身をよじる。駿君がナイフを引っ込める。その隙に男は駿君の襟首を掴み、強く引き寄せた。

 鋭い牙が駿君の首筋に迫る。


 駿君が大きく腕を動かした。肘が男のみぞおちにめり込む。男の手が襟首から離れる。

 銀色のナイフの刃先が、男の胸に吸い込まれる。

 駿君に胸を刺された男は、ゆっくりと倒れこんでいった。




 体が動かない。

 脚に力が入らない。

 そのまま再びへたり込む。

 駿君はナイフを鞘に納め、私を見た。


「大丈夫。この『男の人』の方に怪我はない。取り憑いていたクドラクも消した」


 風が吹く。夕陽を受けた駿君の髪が揺れる。


「俺は、クドラクを消すことができる人間、『クルースニク』――吸血鬼ハンターなんだ」

 

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