第2節・第1話 悲しみのエフェネル
その昔……。
古都ラテリアの北に、エフェネルという都市があった。
エフェネルの民は、ことあるごとに己の気高さ美しさを競いあい……。
それゆえに、神々の罰を受けた。
(裁きの神エフェネルの伝承)
※※※
霧が深い。
濃厚な乳のスープとしか言いようのないものが、渦巻き流動しながら流れていく。
いかに目を凝らそうとも、足もとすらおぼつかない。
衣服に覆われていない、あらゆる部位に、ねっとりと霧の微粒子が張りついてくる。
(癇にさわる霧だ……)
琉酔乱は、そう思った。
目を凝らし、近くにいるはずの二人を見定めようとする。
なにも見えない。
だが、かすかに音がする。
蛮虎と花梨は、離ればなれにならないよう声をかけあいながら、一歩、また一歩と霧の中を進んでいる。
「離れるな、道に迷うぞ!」
琉酔乱の呼び掛けに誘われ、二人の足音が近づいてくる。
しかし、すぐにまた遠くなる……。
ここはマルーディア北方。
緑深い、パルミラの森。
タリオール山脈の南に位置する辺境である。
北方からの冷たい季節風と、東海洋からの湿った海風が多量の雨を呼び、その結果、豊かな落葉樹林帯を育むことになった。
ここはランドキアで一番の、霧と雨の土地なのだ。
リュトラ城塞都市を出た琉酔乱たちは、鉱山都市バイホーンへとむかうことにした。
通常の旅であれば、首都ガリレアへと通じる黄金街道を南下して、それからパルミラの森を迂回するため枝街道に入る。
しかし琉酔乱は、旅を急いでいる。
そこで、すでに廃棄されて久しい
北辺道は、その起点を東の要衝サゴンに発し、リュトラを経由したのち、パルミラの森を突き抜け、まっすぐにバイホーンへと延びている。
かつてそれは、サゴンとバイホーンを結ぶ主街道だった。
しかし、この雨と霧である。
さらには幾度かの戦乱が、この道を通り抜けた。
今となっては、リュトラ以西は、かよう者とてない廃道である。
「気をつけろ。これは妖霧だ」
琉酔乱の声がひびく。
落ち着いた口調で、となりにいるはずの蛮虎と花梨に、注意をうながす。
「はいっ!」
「はッ!」
歯ぎれの良い
しかし、声はすれども二人の姿は見えない。
それどころか……。
ねばりつく霧がひたひたと押しよせてきて、すぐそばの、自分の手足ですら隠そうとする。
琉酔乱は歩いた。
もう間もなく日が暮れる。
夜の霧に巻かれたら、それこそ道を見失ってしまう。
一刻も早く、この森を抜けねばならぬ。
だが琉酔乱は急がない。
踏みかためられた地面を確認しながら、一歩一歩、じれったいほど慎重に足を運んでいく。
あせっては、こちらの負けだ。
そこが街道であることを確かめる作業こそが、幻霧からおのれの身を守る、ゆいいつの手段。
そう自分に言い聞かせ、ひたすら亀の歩みを続けていく。
しばらく歩いたのち。
琉酔乱はもう一度、二人にむかって声をかけた。
「害をなす様子は、ないようだが……」
「………」
「こいつらは明らかに意志を持っている。なにかの前ぶれかも知れんから、俺のそばを離れるな」
返事はない。
いつもなら、打てば響くような声が返ってくるはずだ。
ほんのりと眉をよせる。
「どうした?」
こころもち、声を大きくして呼びかける。
しかし……。
やはり応えは返ってこない。
「わか…さ…ま…」
「むう!?」
かすかに琉酔乱を呼ぶ声がした。
花梨の声らしい。
しかしそれも、すぐに錯覚と思えるほど減弱し、たちまち茫漠たる霧に吸込まれてしまう。
「化かされたか」
琉酔乱に、あわてた様子はない。
周囲の気配を探るように、じっとその場にとどまっている。
腰には愛用の長剣をさげ、背には奇妙なT字型の金具を背おっている。
やがて……。
右の肩にかけている雑嚢袋のヒモをたぐりよせ、中から小さな笛を取りだした。
魔笛である。
口もとに持っていき、強く息を吹きこむ。
ふぉおぉ――!
木の
それが霧をつらぬいて響きわたる。
専用の魔笛で呼ばれた魔導師や巫女は、いかなる場所にいようとも、けっして笛の主を見失うことはない。
だから琉酔乱は、花梨の笛を吹いた。
笛の音を聞いた花梨は、ほどなく転位飛翔の術で駆けつけてくるはずだ。
琉酔乱は待った。
しんしんと霧が流れていく。
すべての音と色をのみこんで、なおも霧は成長を続けていく。
まるで幼いころに見た悪夢のようである。
真っ暗な世界にたなびく純白の霧。
その霧が、逃げども逃げども追いかけてくる。
足はタールに突っこんだように重く、叫ぼうにも声は出ない。
そして霧の触手が後頭部にかかろうとする、まさにその瞬間。
激しい動悸とともに、たたき起こされるのだ。
だが琉酔乱は、もう大人である。
幼いころの自分。
セイラと呼ばれたころの、あの砂糖菓子のように甘い、リアーナ村での思い出……。
その世界を、傍観者として眺められる程度には歳をとった。
「さて……」
数瞬の時が流れた。
しかし、花梨は現れない。
琉酔乱は歩きはじめた。
待っても無駄であれば動くしかない。
この幻霧には意志がある。
もしも相手になにかの意図があれば、かならずや接触を試みてくるはず。
そう、思った。
琉酔乱は歩きつづける。
いつしか足もとは、踏み固められた街道の地面ではなくなっている。
しっとりと濡れた、森の下生えに変っている。
何度か行く手を木にさぎられ。
そのたびに、目の高さの位置にナイフで目印をつけた。
そしてまた歩きはじめる。
唐突に、足をとめた。
「もし……」
女の声がした。
前方に人の気配がする。
「道にお迷いですか?」
「そうだ」
「お一人で?」
「仲間とは、はぐれてしまった」
「それはお気の毒に。この霧は、旅人に幻覚を見せる作用を持っています。なんでも、この森に育つ木々の分泌する、樹液に毒があるとか」
「俺には霧にしか見えんが」
「それはあなた様が、なにものにも執着なされておられぬから。そしてその心を持っておられるからこそ、この地にたどり着けたのです」
「この地?」
琉酔乱の質問に、くくっと、ふくみ笑いが返ってくる。
そしてふたたび声がした。
「ようこそ、エフェネルの町へ」
その途端――。
まばたきをするように、乳白色の霧が晴れあがった。
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