10−7

 正門が、開きはじめた。


「銃列、二列。すぐにだ」

 ゴフ。“錠前屋じょうまえや”が、騎兵銃を並べた。緊張が走る。


「最果ての地。氷河のはらを切り拓いた、双角王そうかくおうの名に誓い」


 大喝が響いた。

 アルケンヤールの、戦士の名乗り。


「我ら、国家憲兵警察隊。カスパル・オーベリソン」


 見えたのは、巨体。オーベリソンだった。


「第三監獄勤務の刑務隊隊員一同を伴い、只今、参上仕った。“錠前屋じょうまえや”隊長、ゴフ大尉に、お目通り願いたい」


 縦列の中から、ゴフが走り出ていった。

 握手ひとつ、抱き合っていた。こちらを向いて、手を振った。


 中から、十数名が出てきた。

 刑務官と、ペルグランたち。


 シェラドゥルーガが、スーリを抱きかかえていた。

 怪我をしているようだった。


「生きている。どうかこのこを、助けておくれ」


 血が出過ぎたのだろうか、意識が薄い。


 アンリが詰め寄って、応急処置をてきぱきと行った。力強い言葉を掛けながら、傷の消毒、縫合。軟膏を塗り、包帯を巻いたら、ドゥストに託す。

 衛生救護班の、生命せいめいのリレーである。

 その間もずっと、シェラドゥルーガはスーリの側にいた。


「かあちゃん」


 かすかに聞こえた。小さな声。


「かあちゃん、おいら」


 その声に、シェラドゥルーガの体が、わなわなと震えはじめた。


「スーリ。あかい肌のスーリ」

 ドゥストから奪うようにして、スーリの体を抱きかかえた。

 そうして、泣きながら。大粒の涙を流しながら。


「スーリ。おかあちゃんだよ。おかあちゃん、ここにいるからね。あかい肌のスーリ。お前のおかげで、おかあちゃんたち助かったんだから。お前、ほんとうに偉かったよ。ありがとうね。おかあちゃん、待ってるからね」


 おかあちゃんと。その声が、枯れるまで。

 しばらく、そうしていた。


「あのこは、私を守ってくれた」

 飲み物を用意してもらい、シェラドゥルーガと並んで腰掛けた。まだ、涙は残っていた。

「守らせてしまった。身を挺することを、強いてしまった」

「いいんだ。おかあちゃんだもの。子どもなら、そうするさ」

 ダンクルベールはそう言って、その肩を抱いてやった。


 白でもなく、黒でもない、あかい肌の人たち。

 思い返してみれば、スーリ以外で、その色を見た覚えはなかったはずだった。


 そこからは、刑務局の鎮圧部隊の仕事だった。

 中に入っていき、生存者、負傷者を運び出していく。あるいは抵抗するものがまだいたのだろう、いくらか戦闘する声が聞こえたりした。

 工作員らしきものも、捕縛されていた。


 しばらくして、何人かが担架で運ばれてきた。

 刑務官。まだ生きている。


 そのうちのひとりの横に、ペルグランが駆け寄った。

 ルデュク一等と、呼ばれていた。

 血だらけで、痙攣しており、血の泡を吹いていた。見た中で一番、状態が悪い。


「アンリエット」


 それに駆け寄ろうとしたアンリに、つとめて、静かに。


「離れろ」


 間に割り込んだ。胸元のものには、手をかけていた。



「そいつだ」



 その言葉が伝わったか、どうか。


 担架に乗せられた男が、動いた。

 何かを突き出す。こちらも同時。


 音は、なかった。



 ペルグラン。

 男の胸に、剣を立てていた。



 動かなくなった男の顔に、手を乗せた。違和感があった。

 ひっぺがす。

 その下から、まったく違う顔の男が出てきた。


「身元の確認だけ、やっておこう」

 それだけ告げた。


 アンリの隣には、オーべリソンがいてくれた。

 いくつか話をしたが、大丈夫そうだった。

 オーベリソンも疲労が見えていたが、精神的には余裕がありそうだった。


「ルイソン。帰ろう」

 男は、ぼうっと立っていた。


「ルデュク一等は、俺を、信頼してくれてたんです」

「そうか。仇を取ったと思えばいい」

「そうですね。それがきっと、いいんでしょうね」

 声が、震えていた。



「親父」



 子どもの顔で、ルイソン・ペルグランは、泣いていた。


「親父。ルデュク一等、死んじゃった。俺、エーミールとおんなじこと、しちゃったよ」


 エーミール。その名前に、思わず、震えてしまった。

 “おろし”の若い男。ペルグランに憎悪と怨嗟に塗れることを覚えさせるために、あえて死なせた男。


 俺は息子に、人を殺させていた。

 自分と同じてつを、踏ませてしまったのだ。


「言うな、ルイソン。死人に囚われるな。俺と同じになるんじゃない」

 張り上げた。自分を叱るように。

「悔しいです、親父。俺、悔しいよ。せっかく親父の息子になれたのに。信じてくれた人ひとり、生かせなかった」

「ならその分、生きなさい。前に進んで、ルデュクもエーミールも一緒に連れていきなさい。俺の息子ならできるはずだ。ルイソン、自分を責めるんじゃない」

 息子を抱きとめた。流しそうになるのをこらえながら、そうしていた。


 デュシュマンという将校に、死んだ男を見せた。

 名前ひとつ出てきた。ここの最高責任者である、看守長だった。

 頭を抱えて、死んだはずだと、何度も呟いていた。


 本当のルデュク一等は、バルゲリー男爵夫人の牢獄の前にあった。

 多くの骸の中のひとつ。

 心臓を突かれ、顔を削がれていた。


 かつてのボドリエール夫人そっくりな、女の死体。

 見た途端、怒りと、吐き気がこみ上げてきた。


 逃げた囚人は、いなかった。

 各自の牢獄の隅にいたもの。死体になったもの。その数が、合っていた。

 生き残ったものは、刑務局の方で、別の施設に移送することになった。


「お疲れ様でございました。我が子、そしてダンクルベールさまの子であるルイソン・ペルグランが、無事に帰ってきたことだけで、十分でございます」

 “赤いインパチエンス亭”に、ペルグランを連れて帰った。あれの母であるジョゼフィーヌが迎え入れてくれた。


「ルイソンは、心に傷を負いました。本官も勿論、面倒は見ますが、どうかジョゼフィーヌさまからも、優しくお声を掛けていただければと思います」

「それほどまでに、おつらい事件だったのですか?」

「暗闇の中の恐怖です。誰が敵か味方かもわからない場所に、自ら赴きました。立派な子です。だからこそ、その中で出会った、信頼してくれた人を守れなかったことを悔やんでおります」

 それだけ言うと、ジョゼフィーヌは、瞼を閉じた。


「屍を乗り越えること。それだけは、教えてあげられなかった」

「誰にもできますまい。教えることも、乗り越えることも。本官もいまだ、できずにいます。不貞の末に身を消した妻の、浜に上がった姿。今でも、鮮明です」

 言って、自分の瞼も、重くなった。


「お煙草。ご遠慮なく」

「申し訳ございません。失礼いたします」

「あのこも男になりました。育ててくれたダンクルベールさまを、父と呼べるほどの男に。だからきっと、乗り越えられなくとも、折り合いは付けられるはずです」

「それだけを、願っております」

 紙巻が短くなるまで、言葉は交わさなかった。


「改めまして、ダンクルベールさま。我が子、ルイソン・ペルグランをひとりの男として育てて下さり、あれの母として、御礼を申し上げます」


 そのひとは席を立ち、一礼した。

 美しい所作だった。

 あわせて、こちらも立ち上がった。


「こちらこそ、御礼を申し上げます。男ひとり、育てさせていただきました。娘ばかりの家でしたから」

「それであれば、何よりでございます」


「それと、ジョゼフィーヌさまへ。言伝を」

 胸元から、封筒ひとつ。

 それを、渡した。


「名を、継いで欲しいと。愛しき妹、ジョゼフィーヌ・ボドリエールに、その名を託すと」

 シェラドゥルーガから、託されていたものだった。


 一瞬だけ、呆けたような顔をした。

 それでもすぐに、毅然とした表情に戻った。


「お気持ちだけ受け取ったと、お伝え下さい」

 ジョゼフィーヌはそう言って、封筒の中身も改めず、三つ、四つに千切ってしまった。

「屍は、乗り越えなければなりませんから」


 言った後、その頬に、大きなひと粒がつたっていった。


「お見事にございます」

 みとめてから、改めて一礼した。


 家名なき、黒髪くろかみのジョゼフィーヌ。

 旧時代の価値観と戦い続けた、ひとりの母。

 強いひとだった。そして何より、悲しいひとだった。


 そして、シェラドゥルーガ。


 家に、連れて帰った。

 ぼうっとしていた。疲れたのか、あるいは別のものかは、わからなかった。

 娘たちに作っていたようなものを作って、食べさせた。美味しいと言いながら、食べてくれた。


「守れなかった」

 グリューワイン。啜りながら、ぽつりとこぼした。

「気に病むか?」

「うん」

「誰のせいでもないさ。お前のせいでも」

 隣に、座った。肩を寄せてきた。


「目の前で、ああやって傷ついて、死んでいくのをみるのは、つらかった。恐怖におかされて、行き場がなくなって、人も、自分も殺していくさまを見た。彼らは暗闇に、そしてシェラドゥルーガに怯えながら、死んでいった」

 鼻声だった。涙はなかった。


 シェラドゥルーガは、生きている。

 バルゲリー男爵夫人の牢獄に、血で綴られていた。

 あの暗闇の中に取り残されたものたちは、存在を秘匿されたシェラドゥルーガの影に、怯えていた。


 そのためにシェラドゥルーガは、恐怖を恐怖で塗りつぶすということをやったらしい。

 人を愛し、愛されたい。そんな人でなしが、最もやりたくなかったことを。


「ガンズビュールの時は大変だったけど、楽しかった。うきうきしていた。お前を手に入れたくって、そして皆、私を愛してくれていて。でも今回は、こわがられた。ただひたすら怯えられ、そして死を選ばれた」

「お前も、感情のある生き物だから、そうだろうな」

 これは、人ではない。超然として、傲慢な生き物だった。人の心を見透かし、操り、支配した。

 だからこそシェラドゥルーガは、ただ不必要に恐れられることが、つらかったのだろう。


 その心の繊細さに気づいたのもまた、あの時だった。


 “湖面の月”。夫人としての、最高傑作にして、遺作。

 そしてダンクルベールにとっては、ひとつの傷。


 それは、シェラドゥルーガにとっても、同じだった。

 不本意なかたちで、ダンクルベールに大きな傷をつけた。それを、気に病んでいた。


 傷だらけのふたり。

 きっとお互い、依存していた。

 だからこそシェラドゥルーガは今でも、ダンクルベールを愛し、ダンクルベールもまた、シェラドゥルーガを信頼できていた。


「やめたいなあ、私。シェラドゥルーガを」

 しばらくして、子どものような口調で、そう言った。


「それは、誰しもがきっと、一度は思うことだよ。俺も、オーブリー・ダンクルベールを、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールをも、やめたいときがある」

「お前は、お前を産んだ親や、お前を大切にしてくれた人がいる。そして、そういう人から、もらった名前がある。それは、本当のお前だ。私のそれは、人から恐れられて付けられたもの。あるいは、人から奪ったり、偽ったりしたものだけ。だから、本当の私が、欲しいなあって、思うんだ」

「偽りのものでも、お前が付けた、お前の名前だ。今回のリュリというのも、いい名前だと思ったよ」


 目を合わせる。

 綺麗な、澄んだあか。いつもの、何かが潜んだそれではない。


「付けてくれないかな?」

「お前の、名前を?」

「リュリは、姓だから」

 思わず、笑ってしまった。


「困らせるようなことを言うんじゃないよ。娘ふたり、散々、喧嘩して付けたんだ。お前にも、愚痴っただろう?」

「知っている。リリアーヌと、キトリー。リリィと、キティ。素敵な名前。何回か会ったよね。ちいちゃいときと、ガンズビュールのときか」

 そこまで言って、不意に、くすくすと笑いはじめた。


「お継母かあさんになってほしいって、言われたんだよね」

 言われて、ちょっとだけ、頬が熱くなった。


 ガンズビュール事件の際、マレンツィオが向こうに別荘を持っていたので、娘ふたりも、そこで面倒を見てもらうことにした。その際に、シェラドゥルーガとも顔をあわせたのだが、確かリリアーヌの方が、そう言い出したのだ。

 リリアーヌは、昔から、おませなこだった。あれが家に置いていった、ボドリエール夫人の著作を勝手に読んで、感化されていった。

 初孫の名前も、パトリシアからパトリック、そしてダンクルベールからリュシアンを貰って、パトリック・リュシアンにしていた。最初は呼ぶのに戸惑ったが、なんとか自分を慣らしていったものだ。


 疑いがなければ、素直にそれを、できたのかもしれない。たとえ人にあらざる、人でなしだとしても。


「綺麗で、可愛い子どもたち。褐色の青鹿毛。目も鼻もばっちりしてて。もう、お母さんだもんね」

 笑っていた。いつもの魔性ではない。ただひとりの女としての、シェラドゥルーガ。あるいはそれですらない、本当の、このひと。


 名前、か。少しだけ、考えた。


「ファーティナ?」


 とりあえず出してみた言葉に、それの目が、光った。


「おふくろの名だ」

 笑ってみた。笑ってくれた。


「ファーティナ・リュリ。じゃあ、ティナにしようか」

「それで、いいか?」

「うん。我が愛しき人の、お母さん。我が愛しき人を産んでくれた、お母さんの名前なら、受け継ぎたい」

 そう、笑いながら、体を預けてきた。


 肩に手を回す。しばらくもしないうちに、寝息が聞こえてきた。綺麗な顔。そして、幸せそうな、寝顔だった。きっと、いい夢を見る。


 おやすみ、ティナ。そして、いい夢を。


(つづく)

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