ハレオト♪ 第3話 初期衝動
ついに意を決して、お母さんと一緒に父の部屋の前に立った。
「……ゴクリ」
「いい? 開けるわよ?」とお母さんが声をかける。
まほは、なぜだか緊張していた。父の部屋に入るのは、いったい何年ぶりだろうか。
大好きだったお父さんが亡くなって、最初はそれを信じたくなくて遠ざけていた。けれど、いつの間にか、それは“自分とは関係のない部屋”になっていた。
ガチャ……。
お母さんが、ゆっくりとドアを開けた。
父が事故で亡くなってから、もう十年。久しぶりに入るその部屋には、懐かしい匂いがするような、しないような……不思議な感覚がまほを包んだ。
「さあさあ、奥まで行ってみて」
お母さんが、そっとまほの手を取った。
先日、足をぶつけて悶絶したアンプが、入り口付近に無造作に置かれている。
今度はぶつけないように、まほは慎重にその横を通った。
部屋には、使い込まれた革張りの椅子、壁一面に並べられたレコード、そしてお父さんが愛用していた古いカメラが置かれていた。
埃ひとつないその光景から、今でもお母さんが丁寧に掃除していることが伝わってくる。そして、そこにはまるで時間が止まったかのように、お父さんの記憶が静かに息づいていた。
デスクの脇には、いくつかのギタースタンドが並んでいた。その中で、ギターが立てかけられていたのは、わずか3本だけだった。
「だいぶ手放しちゃったけど、まだ3本だけ残してあるのよ」
「あれ……このギター……」
真ん中にあった黄色いギターに、まほの目がすぐ留まった。
「レスポールスペシャルだ! やっぱ、かわいい?!」
実はネットで調べていて、かなり気になっていたレスポールスペシャル。
それが、こんなところにあるなんて!
まほの心は、一気に弾けるように高鳴った。
右隣には、赤くてボディの大きなギターが並んでいた。
「ふ?ん……穴が空いてる……これも可愛いけど、ちょっと大きめですね……」
左隣には、茶色いサンバーストのレスポールが置かれていた。
「……」
そのギターを見た瞬間、まほはなんとも言えない不思議な気持ちになった。
3本とも、ヘッドには「Gibson」と書かれている。まほがネットで見ていた、あのGibsonのギターたちだとすぐにわかった。
「ねえ、お父さんが私にくれたっていうギターって、どれなの?」
「この左のギターよ。レスポールクラシックっていうの。お父さん、ずっとこのギターを大切にしててね。ツアーに出てる間は、私が代わりに手入れしてたの。今でもちゃんときれいにしてあるのよ?」
ギターは何年も眠っていたとは思えないほどピカピカで、ホコリひとつなく、弦も新しいものが張られていた。
「こっち、か……」
なんとなくレスポールスペシャルに惹かれていたはずなのに、不思議と、このレスポールクラシックのほうに気持ちが引き寄せられていた。
「真ん中の黄色いのはね、私のギターなの」
と、お母さんがどこか嬉しそうに言った。
「えっ? お母さんの?」
「そうそう。お父さんがね、“お母さんみたいだから”って、買ってきてくれたの?♪」
少女のようにときめいた顔を見せるお母さんに、まほはちょっと呆れ顔。
「そ、そうなんだ……それは、よ?うござんしたねぇ」
まほはお母さんの惚気に呆れつつ、ギターのほうへと視線を戻した。
「このギター、なんか……最初に見たときから気になってたんだよね。レスポールスペシャルは可愛いから惹かれてたけど、この茶色いのも、なんか……不思議と惹かれるっていうか……」
「ちょっと弾いてみる?」
そう言うと、お母さんは例のアンプを引っぱり出してきて、ギターにケーブルを差し込み始めた。
「え?!? ちょ、ちょっとー! 弾けないよ?!」
焦るまほをよそに、お母さんはせっせと準備を進める。
お母さんは奥の棚からシールドケーブルを取り出して、ギターとアンプを手際よく繋いでいく。
パチッと電源を入れると、アンプからブォーン……と独特のノイズが響いた。
「さあ、持ってみて!」
「う、うん……」
まほは、お母さんに促されるまま、そっとギターを抱えてみた。
ずっしりとした重さに驚きながら、指先でネックをそっとなぞる。
(こんなに重いんだ……)と、まほは心の中でつぶやいた。
まほがギターを抱えたその瞬間、お母さんの目がふっと輝いた。
その表情には、驚きと喜び、そして懐かしさがあふれていた。
「このピックを、親指と人差し指でこうやって持ってみて」
お母さんは、まほに一枚のプラスチックの板をそっと手渡した。
「で、ここをこんなふうに押さえてみて」
そう言いながら、お母さんはまほの細い指をそっとギターのネックの弦の上にあてがった。
ジー……と鳴っていたアンプのノイズが、ふっと止まった。
「そのピックで、弦を思いっきり弾いてみて! さあ、張り切ってどうぞ?!」
なんだかとても楽しそうなお母さんを見つめながら、まほは覚悟を決めた。
――ついに、ギターを鳴らすその瞬間がやってきた。
この先、自分は後戻りできるのだろうか。ギターという“沼”の中に、足を踏み入れてしまうのか――。
不安と好奇心がせめぎ合う中、まほは意を決して、ピックを振り下ろした。
ジャーーン!
中域がほどよく効いた、解像度の高い歪んだサウンドが、部屋いっぱいに響き渡った。
その瞬間、ビリビリと電気が走ったような衝撃が全身を駆け抜け、胸の高鳴りが抑えきれなかった。
弦を弾いたその瞬間、まほの鼻腔をくすぐったのは、ほんのり香る古い木の匂いだった。
それは、子どもの頃に父のギターケースの中で嗅いだ、懐かしい匂い。あの頃は「臭いな」って思っていたはずなのに――。
その香りを感じた瞬間、まほの頭の中に、走馬灯のようにお父さんとの思い出が駆け巡った。
「かあさーん、まほがギターを弾いたよ! ほら、みてみてー!」
「まほはギターが上手いなあ。将来はお父さんよりうまく弾くようになるんじゃないか?」
「まほ。このギターを弾いていると、まほがそばにいてくれるような気がして……父さん、心強いんだよ」
いくつも、いくつも。お父さんとの思い出が次々と胸によみがえり、まほの目には、知らず知らず涙が滲んでいた。
「こ、これが……ギター……」
まほは、一瞬で虜になった。
それは“好きかどうか”を考える間もなく、心を掴まれてしまったような感覚だった。
「やば……!」
全身が震えて、気づけば声が漏れていた。
この日、初めてギターを弾いたときの感覚――
それは、まほの心に焼きつく“初期衝動”として、一生忘れられないものになった。
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