ミューズ

思慕 藍伽

第1話 渇望

 インプット、アウトプット、インプット。

 本を読んで、映画を見て、書いて。書くためには、得なきゃいけない。質の良い作品を見た後は、自然と沢山の文章が湧いてくる。でも、面白くないものはダメだ。貴重な二時間半を無駄にした気持ちになる。

 作家は、反芻動物なんじゃないかと思う時がある。


 歌舞伎町のチェーン店のカフェのコーヒーは、今日も変わらない味がした。昨今、受動喫煙に関する防止条例で、タバコを吸いながら打ち合わせのできる店が少なくて、喫煙者の私と、担当編集の沢田さんが集まるのは、いつも駅から近いこのカフェだった。マルチ商法や風俗の面接の会話が行われている場所だからか、店内の音はやや大きめで、人の話し声も大きい。

「後藤先生、何度も言ってますけどね。もうちょっと激しくなんないですか。こう……スクール水着を着せて、そうだな……駅のトイレとかで。緊縛して、股のところにハサミで穴をあけて、後ろの穴にいきなり挿入みたいな」

「いや……でも、それだと前の描写で紐のパンツを奪うシーンとつながらないじゃないですか」

「トイレで着せればいいじゃないですか?」

「スクール水着って、着るの結構大変なんですよ。季節は夏だし、汗で張り付くわけだし。スムーズに着れないわけで……。それに慣らしてないおしりに挿入なんてそんな」

「小説ですよ、小説。官能小説。ファンタジーなんですから……」

 この会話は、いったい何度目の平行線の会話だろうか。


 中学生の頃、性に対する憧れが強くなった。歳としては少し早めだったかもしれない。当時見ていたドラマで、ハマっていた役者が、セックスを匂わせるシーンを演じていて、身体が熱を持ったのがきっかけだった。そのドラマが放送されてから、何日か主人公の女の子に自分を重ね、触れられる妄想をした。だから誰にも言えないし、恥ずかしいことだと思っていた。

 田舎生まれで、周りには田畑ばかりの中、娯楽はもっぱら読書とドラマだった。両親も本を読むことが好きだったからか、文字を読めるようになってからは、本を手放す事がほぼ無いと言えるほど読書に明け暮れた。食事中に本を読むのはやめなさい、と母親に怒られたこともあったが、何度言っても聞かなかったからか、次第に言わなくなったのを覚えている。 そのうち、当時家の近くにあった中古書籍のチェーン店で本を沢山買うようになった。限られたお小遣いの中で、安くて興味のある本を何時間もかけて店内をうろつき、宝探しのように探しては購入していた。そしてある日、少し奥まった場所にある黒い背表紙の、どうやら卑猥な本であるということがうかがえるタイトルの本たちを見つけた。その時、どうしてもそれを読んでみたいと思って、さしてタイトルも見ずに一冊手に取り、裏の値段をちらりと見て買える事だけを確認して、隠すように両手で持ってレジカウンターへと歩いた。家に帰ってその本を開いた時、こんなに淫らで、こんなに興奮する本があったなんてと衝撃を受けた。。

 芥川賞を取っただとか、本屋大賞を取っただとかの話題の本と違って、官能小説の価格は、中古書籍のチェーン店では当時、それなりに状態がいいのにも関わらず、あまり210円を超さなかった。それもあって、私はのめりこむように古い官能小説を何冊も買って、親に隠すように沢山読んだ。性的な内容のものなのに、官能小説はアダルトビデオやアダルト漫画などと違って、十八歳未満でも購入できるものだ。何か特別なことをしているような、世界の抜け穴を自分だけがみつけたような、そんな高揚感もあったからかもしれない。

 高校生になってアルバイトをする事ができるようになった。初めて夏休みにラーメン屋でアルバイトをしたら、夏休みが終わったころにはまとまった金額が通帳に入金されていた。 その通帳を見たとき、ATMで咄嗟に十数万を引き出して、そのまま中古のパソコンを取り扱う店に行って、パソコンを買った。漠然と、小説を書いてみたいとおもっていたからだ。

 初めて買った中古のパソコンには運よく、はじめから文章作成のソフトが入っていた。そのおかげで、学校から帰ってきてアルバイトの無い日は一人でせっせと小説を書くようになった。当時はプロットだの、構想だのはわからず、授業中に思いついたセリフやシチュエーションをノートの端に書いて、家に帰ってからそれを膨らませて書くという方式を取っていた。だからか、何度も展開に行き詰った。それでも、私は書くことを辞めなかった。最後まで完成させること、それだけを目標として。

 その時書いていた作品は、ドラマで小説原作のミステリーばかりやっていたため、ミステリーだった。それなのに、官能小説ばかり読んでいたからか、書いているうちに性描写を入れたくなって、筆がのって、途中から段々と官能小説になっていって。

 後で見返してみて、ミステリーの要素がいらないなと思って、修正し足りを繰り返すうちに、小説が完成した。このころはまだ処女で、18歳にもなっていなかったから、どこかに出すということはせず、USBメモリに書いた小説を保存するだけでとどまった。

 次第に私は、はじめから官能小説を書くようになっていった。

 短いながらも書いて、貯めて、書いて、貯めて。どこに見せるでもなく、その繰り返し。

 当時は若さゆえの体力があったし、性への憧れも、中学の時よりも強くあった。まわりにはちらほらと恋人ができている子がいたが、どうやって人と恋愛関係になるのかが全くわからなくて、一向に彼氏はできなかった。

 アダルトビデオも性的な漫画も18歳になっていなかったから、買えなかった。18歳未満の立ち入り禁止ののれんの奥へ足を踏み込んでみるような事もしなかった。そこに入った瞬間、店員さんに呼び止められて、年齢確認をされて、下回っていると気が付かれた瞬間に親を呼ばれて、まるで万引き犯への扱いみたいなものを受けると思っていたからだった。

 今みたいにアダルトビデオも同人誌も、動画や電子で見れるものじゃない時代だ。

 それに、買ったら買ったで部屋に置いて置かなきゃいけない。親に見つかったら最後、まるで信じられないようなものを見るような目で見られそうだとか、怒られそうだとか、それで家族間の空気の形が変わったらどうしようだとか、そういう事ばかり考えてしまって、それらを手に入れるのは、高校生の自分には夢のまた夢の話だった。

 その点、官能小説は上から紙のブックカバーをかければ隠せてしまう。部屋の本棚には、溢れるほどの本がある。100や200なんて量じゃない蔵書の隅々まで親が見ているとは思えない。木を隠すなら森の中、本を隠すなら本の中だ。アダルトコンテンツが買えないなら、自分で書くしかない。

 性欲が暴れるように湧いた日には、人と発散できない恨みもこめて、書きなぐっていた。十代の性欲は恐ろしいものだったと思う。気が付けば、保存しているUSBメモリは5本を超えていた。


 そして月日は流れて、私は大学へと入学した。大学一年生の6月頃、初めて彼氏ができた。サークルで出会った同い年の男の子だった。

 彼の部屋に初めて行ったとき、期待に胸を膨らませた。

 そういう雰囲気になって、そういう行為が始まって。

 きっと小説みたいに気持ちいいに違いない。何度もイって、たまらなくなって、気まで失っちゃったりして。

 妄想していたことが現実になるはずだった。

 彼のささくれた手が私の身体に触れて、キスをして。高まる胸の鼓動がせわしなく、私の期待に濡れた奥深くをかき乱されるその時を待っていた。

 そうして、私の初めては散った。

 ああ。なんだ。

 終わった後に胸に湧いた言葉はそれだった。初めての情事を終えて、シングルベッドに裸で横わたる彼を気にするよりも、冷えたつま先と肩が不愉快で仕方なかった。私はすぐに夜の獣から身を隠すように服を着て、終電にまだ間に合うから、と会話も早々に彼の部屋を出た。

 胸を触られても痺れる気持ちよさはなく、乳首が取れそうな痛みだとか、挿入されても、入口が裂けるような痛みが尾を引くなとか。あとは、彼が目をつむって眉間にしわを寄せながら、あんぐりと口を開けて腰を振っている姿が、なんかちょっと受け付けないなとか。そういう感想ばかり。

 官能小説みたいに、甘美でたまらなくて、夢中になっちゃう快楽なんて、そこにはなかった。

 官能小説はファンタジーなんだな、なんて思った。

 彼との関係はその一件から冷めてしまって、フェードアウトしていった。

 大学に行きながら、モラトリアムもあったのか作家になるという夢ができた。このころには書いた小説を公募に送るようになっていた。

 調べてみると官能小説の公募は意外とあり、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると思って、USBメモリから書いていた小説を引っ張り出しては、少し手直ししては片っ端から送っていった。

 あんな経験をしたにもかかわらず、セックスへの憧れも捨てきれてはいなかった。大学で出会った人とか、SNSで出会った人とそういうことをしてみて、やっぱりこれじゃないなって思ったりを繰り返して。

 そうしているうちに、月日は流れ、あたりは就活を始めていた。きっと公募で良い賞を取れるはず、と毎回夢を抱いては小説を送っていた。就職活動から逃げるように、絶対に次こそは、と執念としか言えないような感情に変わるまで。

 

 そんな中で送った小説の1本が公募にひっかかって、官能小説を出すことになった。

 その作品は、貯めていたUSBメモリの中にあった、最後の一本だった。

 そこから一作目がそこそこ売れたから二作目を、という話になったはいいが、いろんな人と身体を重ねて、それなりにいろんな性知識が増えた今、どうしても、これは痛いよなとか、こういうのは事故の可能性があるよな、とか考えてしまって。官能小説として売り出すのには、弱いものしか書けなくなっていた。

 女の身体は人形じゃないし、性器に触れば必ず気持ちよくなれるスイッチみたいなボタンはない。ズブの素人が見様見真似で緊縛をすれば最悪身体は動かなくなるし、汚れた身体でセックスをすれば、性病にだってかかる。


 ”官能小説はファンタジー”


 そのファンタジーが、頭の中に埋め尽くされるありえない、と書かれた原稿用紙でうまって、見えなくなっていった。

 作家という憧れの肩書を手に入れたのに、私は、官能小説が書けなくなった。

 それでもなんとか書き終えた二作目は、流行っていたジャンルとかみ合った。一作だけ出して鳴かず飛ばずになる作家なんて沢山いるから、私は運がよかった。書き始めたときは意識していなかったが、どうやら実写映画化された作品の二次創作でよく使われていたキャラクター設定やプレイの内容だったらしい。これなら書ける気がして、二次創作小説を読んでは、どこかで見たような設定とセリフのパッチワークの作品を書くようになっていった。

 そうして、何本か書いてみたけど、少しずつ売れ行きは曇っていった。本を書いたからと言って、ベストセラーにもなっていなければ、作家の中では遅筆である。ただ、次の小説を出すことは許されている、という状況なだけで、アルバイトをしなければ、食うにも困る。売れれば億万長者で、大抵の人は書いた作品が無条件にベストセラーになるほど売れると思っている。だけど、現実にはそうじゃない。書かないと売れないし、書いても公務員の年収の方がはるかにいいことなんてザラにある世界だ。

 専業作家なんて、夢のまた夢なのが、今の私だ。


「じゃあ、また原稿ができたら送ってください」

「わかりました。ありがとうございました」

 沢田さんとの平行線の会話を終えて、喧噪まみれの新宿駅の東口の大きな喫煙所に立ち寄った。受動喫煙防止法が残した最後の良心と言える喫煙所で、つぶれた箱から取り出したタバコは残り一本だった。アルバイトの給料日まであと何日かあって、嗜好品にお金を割く余裕がない。どうにも上手くいかないイラ立ちを消すために吸ってしまいたいが、ここで吸うとあと数日がきつくなる。今月は、いつものように官能小説は図書館にないからと、何冊もの小説をいつも通り買った上に、SNSで見つけたインディーズバンドのチケットを買ってしまった。作業用に垂れ流していた音楽サイトのサジェストで出てきたバンドで、ハマったから衝動的に取ったチケットだ。性的な歌詞は出てこない。どちらかというと、打開できない現状に対する叫びのような歌詞のものばかりだ。落ち着いた曲調でもない。激しいドラムと、怒鳴り散らすようなギターの音のロック。でも、どこか扇情的で、色気のある低い声質と、性の匂いがほんのり香るワードセンスのその曲を、生で聞いてみたいと思った。酔った時に、チケットの先行抽選が今日までだというSNSの投稿を見て、明日の食費のことも考えずに、衝動的に予約した。

 質の良いインプットをすれば、きっと書ける。そう、誰かの作家のインタビューで読んだことがある。

 インプット、アウトプット、インプット。

 本を読んで、映画を見て、書いて。書くためには、得なきゃいけない。

 書かなきゃいけない。書かなきゃ、作家でいられない。どうしてもしがみつきたいのだ。 作家としての自分以外は、まるでホログラムで映し出されたアバターのような感覚さえある。考えるだけで恐ろしく、この肩書を手放すことは怪物の口の中に落ちていく事に等しい。そしてこの肩書は、何もしなければ自然に剥がれ落ちてしまう。人生は、気張って向かい風に抗わなければ、あっという間に落ちていくフリーフォールなのだ。

 あたりの視線が刺さっている感覚がした。誰かについてきたわけでもないのに、喫煙所に来てタバコの一つも吸っていない。ここでの私は異質な存在だ。私は慌てて、最後の一本のタバコに火をつけた。明日の事は明日考えるしかないな。そういう思い切りも、必要だなんて自分に言い聞かせながら、きついタールを肺に沈めた。


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