第7話

ALJスプリングシーズン・プレーオフ決勝戦。あの嵐のような一夜から数週間が過ぎた。季節は初夏。中学校の窓から吹き込む風は、もうすっかり夏の匂いを運んでくる。僕、高城翔太の日常は、表面的には何も変わらない。でも心の中では、確実に何かが動き始めていた。


その中心には、いつも藤堂結月がいた。あの日、アリーナで孤高の女王のように輝いていたKokemusuiwa。その正体が、僕と同じ教室にいる物静かなクラスメイトだったという事実。そのギャップが、僕の心を掴んで離さない。


決勝戦の後、学校での結月は、以前にも増して周囲から注目されていた。クラスメイトたちは遠巻きに見ている感じだ。「天才Kokemusuiwa」というオーラが、彼女の周りに見えない壁を作っているのかもしれない。彼女自身もそれを感じているのか、休み時間も一人で静かに本を読んでいることが多かった。


でも、僕に対してだけは、その壁が少しだけ薄くなっているような気がしていた。


きっかけは昼休みの中庭。いつものベンチで僕がアストラル・アリーナの分析をしていると、彼女が「隣、いいかしら?」と声をかけてきたのだ。あの日以来、そこは僕たち二人だけの秘密の場所みたいになっていた。


「高城くん、またアストラル・アリーナの分析?」 隣に座った結月が、僕のタブレットを覗き込む。 「あ、うん。決勝戦の動き、何度見てもすごくてさ」 「ふふ。自分の試合を見てもらえるなんて、ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいな」


彼女ははにかむように笑う。以前の近寄りがたい雰囲気はない。年相応の少女らしい、柔らかい表情だ。


「恥ずかしいなんて!特にあのカブトとの連携、まるでテレパシーみたいだった!」 「テレパシー、そうかもね。カブト兄さんとは、もうずっと一緒だから。言葉にしなくても、何となく分かるんだ」 「カブト兄さん、か。やっぱり、君にとって特別なんだね」


僕が言うと、彼女は少し遠い目をして頷いた。 「うん。世界で一番、私のことを理解してくれる、たった一人の、家族みたいなものだから」

その声には、絶対的な信頼と、ほんの少しの寂しさが混じっている気がした。


僕たちの会話は、いつもこんな風に、アストラル・アリーナのこと、AIのこと、そして時々、お互いの好きな本や音楽のことへと広がっていく。


「藤堂さんって、普段どんな音楽聴くの? 僕、最近アストラル・アリーナの新しい拡張パックのサントラが良くて、よく聴いてるんだけど」


「アストラル・アリーナのサントラ、私も好きだよ。特に、ネオン街の戦闘BGMとか、気分が上がるよね。でも、普段はもっと静かな曲を聴くことが多いかな。ピアノとか、弦楽器だけのインストゥルメンタルとか」


「へえ、そうなんだ。僕も、集中したい時とか、そういう落ち着いた曲聴くことあるよ。言葉がない分、自分の世界に入り込める感じがして」


「うん、分かる。音が直接心に響いてくるような感じがして、好きなんだ。…なんだか、カブト兄さんと静かに意思疎通してる時の感覚に、少し似てるかも」


(結月の意外な言葉に少し驚きつつも、彼女の感性の豊かさを感じ取る)


共通の話題を見つけては、夢中になって語り合う。それは、今まで僕が経験したことのない、温かくて刺激的な時間だった。


「ねえ、翔太ったら、最近なんだかウキウキしてない?」 放課後、自室で分析していると、ミオ姉が肩の上で楽しそうに囁いた。 「別に、普通だよ」 「ふーん?でも、藤堂さんとお話ししてる時の翔太、すっごく嬉しそうだもんねー。もしかして、ついに翔太にも春が来たのかしら?」 「なっ!ち、違うって言ってるだろ!」


僕が慌てて否定すると、ミオ姉は「はいはい」とニヤニヤしながら飛び回る。お節介だけど、心配してくれているのは分かっていた。


でもミオ姉は時々、真剣な顔もする。


「でもね、翔太。藤堂さん、確かにあなたには心を開き始めてるみたいだけど、時々、すごく危うい表情をするのよ。まるで、薄い氷の上を歩いているみたいに。彼女が背負ってるプレッシャーは、私たちの想像以上なのかも」


ミオ姉の言葉に、僕の心にも小さな不安の影が差す。そうだ。彼女は、世界中から注目されるスタープレイヤーなんだ。ファンコミュニティでは、早くも次のサマーシーズンに向けて、「アンチ・レゾナンス戦略」なんて言葉も飛び交い始めている。


栄光の裏には、必ず影がある。彼女は、その光と影の間で、一人で戦っているのかもしれない。


「藤堂さん、次のシーズンも、大変だろうけど、無理しないでね」


ある日、僕は思わずそんなありきたりな言葉をかけてしまった。


彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに寂しげに、でもどこか力強く微笑んで言った。


「うん。ありがとう、高城くん。心配してくれるの、嬉しい。でも私には、カブトがいるから。彼がそばにいてくれる限り、私は、きっと大丈夫だから」


カブトへの絶対的な信頼。でも、その信頼があまりにも大きすぎるように感じられて、僕は言いようのない不安を覚えた。もし、その絆が揺らいだら?


初夏の穏やかな日差しの中、僕たちの距離は少しずつ縮まっていた。でもそのすぐそばには、常にアストラル・アリーナという華やかで過酷な世界の影が、音もなく忍び寄ってきている。そんな、甘くて、少しだけ苦い予感に満ちた日々が、静かに過ぎていこうとしていた。

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